アムステルダム大学病院
マルケル湖で騒動が起きつつある一方で、本当の恐怖、それは目に見えない恐怖でもあったが、ひとりの警察官から始まろうとしていた。
警察官が発症してからおよそ3日後、連絡がないまま欠勤が続いていることに心配した同僚が様子を見るために自宅を訪問していた。
玄関の呼び鈴を鳴らしてみるが、宅内から応答がなかった。しかし家の中からTV放送と思われるドラゴン特別番組の音が漏れ聞こえていた。アナウンサーの興奮気味の喋り声は聞き間違いようもない。進展のない特別番組のアナウンサーの口調は誰もが聞き慣れていたからである。TVがついているのであれば、不在というわけでもないはずである。来客に応答ができないほどに体調が悪いのであれば、同僚はなおさらこのまま手ぶらで帰るわけにもいかなかった。
玄関を叩いてみたが、やはり反応はなかった。仕方なく、ボートハウスの周りを回って、窓から内部の様子を見ると、室内にカビのような菌糸がびっしり貼り付いているのが見えた。そして、カビのような菌糸の中で、同僚が動かなくなっているのが見えた。生きているのか、死んでいるのか、わからなかったが、緊急事態であることは、すぐにわかった。
同僚はすぐさまオランダの緊急連絡先の「112」にコールし、到着した救急車によって生死のわからない警察官が緊急搬送された。
改めて症状を見た医師は、疱疹状皮膚炎とは違う別の病を疑い始めた。そして、血液検査を行なった結果、CRP(C-リアクティブ・プロテイン)が非常に高い値が検出された。 CRP(C-リアクティブ・プロテイン)は、正常な血液の中にはほんの微量しか含まれない成分で、体内で炎症や組織細胞の破壊などが起こると肝臓で生産されて血液中に流れ出す物質である。炎症などが起きてから数値の上昇までに半日程度かかるため、前回の検査では見逃されていたのかもしれない。
さらに医師が警察官の体から発見したもの、それは医師が見たこともない菌が警察官の体を蝕みながら増殖していた事実であった。
その菌の正体が何者であり、どこから来たのかは調査の結果を待たなければわからないが、かつてない稀な病状であることが容易に想像できた。40度以上の高熱とともに、体中に発疹などの症状が現れる。病名がわからない現在の状況では、根本的な治療法はなく、解熱剤の投与などで症状を抑えることしかできなかった。
医師が観察のため慎重に菌糸を切り取り、喀痰を白金耳と呼ばれる道具を使って寒天培地へ塗沫し、37℃で培養した。すると、1~2日後にはチョコレート寒天培地上にコロニーが形成されていた。驚くことに、コロニーはチョコレート寒天には関心をしめさず、餌を求めて動きまわった形跡が遺されていた。何度も這ったような跡が残されていたことから、かなり活発に動くことが予想された。自らの体を変形させることによって餌を求めて移動するという動物的な特徴を示していたのである。
自らの体を変形させることにより、植物の特徴や動物の特徴の両方を兼ね備える。粘菌として知られる生き物も同様であり、この菌自身もアメーバのような形態をとり、まるでひとつの生き物のようにふるまう。動物的生態を持つのであれば、バクテリアを捕食する可能性があるため、チョコレート寒天を餌とするバクテリアを入れてみると、未知の菌はバクテリアのコロニーを取り囲むように広がり、まるで逃げ道を塞ぐようにして囲っていた。それは菌による狩りそのものであった。
この菌の感染力についても、危惧すべき特徴を備えていることがわかった。くしゃみなどの飛沫では人から人へ感染することはないが、患者との直接接触により人から人へ容易に感染すると思われた。医師は、警察官を隔離病棟に移すことにした。
もしも世界的大流行、いわゆるパンデミックが起きたら……、医師がそう思うのも無理はない。この菌が今まで未発見の新種な生き物であった場合、万が一の時に備えている世界各国が備蓄するワクチンは効果がないのである。
医師ひとりでは対処が困難と判断し、アムステルダム大学病院中の医師たちに応援を求めた。ただちに、オランダ国立公衆衛生環境研究所に通報することとなり、世界最高峰の感染症の研究機関であるアメリカ疾病予防管理センターにも通報した。
ここに至って、病院の事務員にも発疹が現れ始めていることが判明した。事務員は会計の際に警察官と接触があったことが突き止められた。こうして、未知の菌に感染した警察官だけでなく、感染の疑いがある事務員も隔離病棟へ移された。




