ベームスター干拓地フェアリーリング周辺
ベームスター干拓地に大きな爆発音が轟くと、発生した爆発の衝撃波によって周辺の家の窓ガラスが割れたり、木々の枝が吹き飛ばされたりと、ありとあやゆるものが散乱していた。驚いた住民たちは家から出て、何が起きたのか確認しようと周囲を見渡すと、黒い煙が立ち登るのが見えた。
セリア・ケイも、立ち登る黒い煙を見る住民のひとりとなった。黒い煙は、彼女が所有する果樹園から立ち登っているように見えた。
彼女は何か大きな事故が起きたことを悟った。あわてて妹のサラの姿を自宅内に求めたが、見つけることができなかった。彼女は背筋が凍るほどの不吉な予感を感じた。
セリアが果樹園に駆け付けると、倒れているサラが見つかった。周囲にはカラスの死骸が散らばっていたが、今の彼女にとって、そんなことはどうでもよかった。
「サラ!」
「来てくれたの?」
サラは姉の声を聞くまで、近くに姉がいることに気づいていなかった。サラの視線は宙を見ているだけであり、暗闇の中で姉の声を感じて反応したにすぎない。サラの瞳からは光が失われ、姉の姿が見えなくなっていた。
「あたりまえじゃない。家族でしょ。すぐにお医者さんのところへ連れて行くわ。それまで頑張るのよ」
抱きかかえて起こそうとするが、妹の身体はぐったりとしていた。
「あたし、眠いわ」
サラの声は弱々しく、命が非常に危機的な状況であることは、セリアにも、すぐにわかった。
「駄目よ。駄目よ。お願いだから、寝ないで……。しっかり意識を保って……。言うことを聞いてくれたら、また、オルレアンの乙女の本を買ってあげるわ。好きだったわよね。お願いだから、私を一人にしないで……」
「お姉ちゃんをひとりぼっちにはしないよ。だって、わたしがいないとだめなんだから……、部屋の片づけしないんだから……」
かぼそい声になっていた。サラはそれだけ言うと、手から次第に力が抜けていった。セリアはサラの名前を何度も呼びかけた。それでも、サラに反応が無いと、何度も体を揺すった。サラの身体から体温のぬくもりが消えようとしていた。それは決して認めたくない現実、妹の死の瞬間であった。
「誰か、助けて!」
時は一刻を争った。セリアは大声で助けを求めた。周囲を見回すが、周囲の火災はさらに強くなっている。熱や煙がふたりを包み始めていた。そんな危険な場所に誰もいるわけがなかった。
セリアの瞳から一粒の雫が頬を伝って、サラの顔に落ちた。
「おねえちゃん、泣かないで……。ずっと、そばにいるから泣かないで……」
「約束よ」
「うん。だって、おねえちゃん、大好きだから……。もっと、もっと」サラの言葉が次第に途切れがちになっていた。「楽しい思い出を造ろうね……」
それがサラの最期の言葉となった。セリアはサラのそばにいてあげながらも、守ってあげることができなかった。どうしてこんなことになったのか、彼女の理解を超えていた。
そして、それは現れた。地面を大きく響かせながら、何か巨大なものが近くに出現した。重い足音、相手を威圧する咆哮、その姿はトカゲあるいはヘビに似ているが、大きな翼を持ち、かつて実在したどの生き物とも違っていた。現代では子どもであっても、その生き物が伝承や神話における架空の生物であることは知っている。たった今、現れたその生き物の姿は、まさしく伝説で語り継がれてきた巨大なドラゴンそのものの姿をしていた。
ドラゴンは、あたりをうかがっているようであった。ドラゴンはセリアとサラの存在に気づいたものの関心が無いようであった。ドラゴンが強い関心を持ったのはカラスの死骸であった。
ドラゴンがカラスの死骸に接近すると、カラスの死骸に突然に大きな目玉が現れた。その目玉はカラスの身体の大きさと釣り合っていないばかりか、頭とは違う場所に現れていた。あの生き物が寄生した時に見られた症状のひとつである。カラスの死骸にも分裂した個体が潜んでいたのである。大きな目玉はドラゴンに自分の存在が見つかったことに気づき、カラスには存在しない仮捕捉手を生やして、逃げようともがき始めた。あの生き物にとって、寄生したばかりは宿主の身体を満足に動かせない。カラスの死骸が仮捕捉手によって這うように動くさまは、おぞましさそのものであった。
ドラゴンは甲高い咆哮をすると、吐く炎があたりを焼き払い始めた。焼き払われているのは果樹園でもない。もちろん、人間でもない。あの生き物に寄生されたカラスの死骸である。
カラスの死骸に潜んでいた個体も、ドラゴンの炎から芽胞を形成して逃れようとした。
セリア・ケイはすべてを目撃していたが、この時の彼女にはドラゴンが果樹園を襲うカラスの群れを炎で薙ぎ払っているように見えていただけであった。
夏至と満月により力を蓄えたフェアリーリングは妖しく輝き、力を開放し続けていた。さらに地響きのような足音、威圧する咆哮は、いつの間にかあたり一帯から聞こえるようになっていった。ドラゴンの群れがフェアリーリングから次々と侵入し始めているのである。
そのフェアリーリングの内側に忽然とひとりの若い女性が現れた。初めて見る女性の顔立ちは東洋人で、ショートボブの髪形の女性であった。女性はフェアリーリング境界の手前で立ち止まっていた。フランス共和国陸軍の迷彩服を着ているが、こんなに早く外国の軍隊がオランダの一地域の火災の救助に来たとは思えない。そうであるならば、別の理由でそこに現れたことになる。
そして、フェアリーリングの中の女性もセリア・ケイの存在に気づいた。ふたりの女性の視線は、お互いを見つめていた。
そばに隠れていたフェアリーは、セリアとサラの姉妹の最期の別れを見守っていたが、二人の女性が出会い、巡り合ったことに気がつくと、なにかを思いついたようであった。
「これがサラにしてあげられる最後のことでございます……」
それだけ言うと大きく息を吸い込むと、詠唱を唱え始めた。フェアリーの顔に苦悶の表情を浮かぶほどに渾身を込めた詠唱から、巨大な力を貯めていることが想像できた。
「さようならでございます」
フェアリーの詠唱が完了すると、その一言を残した。すると天空に黒い雲が湧きだしたかと思うと、瞬く間に厚い雲が空を覆い始めた。全天を覆い尽くそうとする雲は、まるで地球を覆い隠そうとしているようにも見えた。
詠唱による代償は小さなフェアリーには許容量を超えており、身体を蝕むほどの大き過ぎる負担がかかった。力を使い果たして目覚めることのない深い眠りについてしまった。
フェアリーリングの中の女性は眠りについたフェアリーを抱きかかえ、セリア・ケイに渡そうとしたのかもしれない。しかし、途中で思いとどまったようであった。
ダイヤモンドダストに似たごく小さな輝きが、フェアリーリングの境界で見えない壁を造り出していた。まるで地球とフェアリーリングは別々の空間であるかのように、フェアリーリングの内側は終末高高度防衛ミサイルの爆発の影響がまったくおよんでいなかった。それは、フェアリーリングの境界には物理的な距離以上の何かが存在しているからかもしれなかった。
「逃げて」フェアリーリングの女性は叫んでいた。「ケイ、諦めないで……。お願い……、どうか、この世界の混乱を終わらせて……」
セリア・ケイは、フェアリーリングの中の見ず知らずの女性が、自分の名前を知っていることに驚かされた。それ以上に、女性が抱えているフェアリーを始めて見ることになり、何かとてつもなく大きなことがこの世界に起きていることを彼女は直感した。それは大げさな表現をすれば、世界のバランスを保っていた何かが外れたことを察知してしまったような感覚、身の丈に合わない壮大すぎる世界の異変を感じ取った感覚であった。
「生きてください。どんなに辛くても、今は皆が生きていくことを考えてください。私だって一度はすべてを失ったけれども、それでも生き続けました。生きていくことは常に辛さや悲しみにまみれています。それだからこそ、大切なことを知り、人生に輝きが生まれ、そして、人を思いやる心が生まれるのです」
フェアリーリングの中の女性は、ケイに危険を伝えようとしていた。ここからすぐに立ち去るように、逃げるように懇願していた。それでも妹を失って失意のどん底に突き落とされたセリアは、その場を全く動こうとしなかった。




