第七話 柴犬とニホンザル、広場で目が合った 語り手:柴犬
おれは広場があまり得意じゃない。
にぎやかすぎる。いろんな子がいて、いろんな声がして、落ち着かない。
でも今日は来た。
理由はうまく言えない。ただ、夜明け前に丘のてっぺんから広場の方向を見ていたら、来たくなった。
朝の広場は静かだった。
まだだれもいなかった。噴水だけが、さらさらと流れていた。
でかい木の黒板を見た。新しいページになっている。まだほとんど何も刻まれていない。
チョークを取って、少し考えた。それから刻んだ。
「よく見てるつもりだが、見えていないことも多い」
自分でも、なんでこれを刻んだのかよくわからない。ただ、そう思ったから刻んだ。
しばらくして、ニホンザルが来た。
朝の広場にはおれとニホンザルだけだった。
ニホンザルもおれに気づいて、止まった。
ふたりで、少しの間、向き合った。
「……犬か」とニホンザルが言った。
「サルか」とおれは言った。
「ここに来るのははじめてか」
「来たことはある。朝は初めてだ」
「おれも朝は初めてだ」
「なぜ来た」
「なぜ来たかわからない。ただ来た」
おれも全く同じ理由だった。それを言うのは少し癪な気がしたが、正直に言った。
「おれも同じだ」
ニホンザルは少し目を細めた。
「似てるな」
「そうか?」
「なんとなく」
おれは噴水を見た。ニホンザルも噴水を見た。
水が光を受けてきらきらしている。それを見ながら、なにかを話そうとして、やめた。何も言わなくていい気がした。
「温泉じゃないが」とニホンザルが言った。
「何が」
「この噴水の水のことだ。温泉じゃない。でも、水が流れているのを見るのは悪くない」
「おれは水が苦手だ」
「そうか」
「おまえは温泉が好きなんだろう」
「そうだ」とニホンザルは言った。「ただ、先日、温泉に他の子と一緒に入った」
「珍しいな」
「珍しかった。でも、悪くなかった」
おれはニホンザルを少し見た。
クールな顔をしている。おれと似た感じの顔だ。たぶん本人は気づいていないし、言わないほうがいい。
「また来るか」とおれは言った。
「朝は静かでいい」とニホンザルが言った。
「そうだな」
ふたりでしばらく、噴水を見ていた。
朝の光が斜めに差し込んで、水面がきらきらした。
何も言わなかったけど、それでよかった。
ニホンザルはチョークを取って刻んだ。
「温泉を少しだけ分けた。それだけで、悪くなかった」
おれはその字を読んだ。
「それだけで、悪くなかった」というのが、なんか、ニホンザルらしかった。
「また来るか」とおれは言った。
「朝は静かでいい」とニホンザルが言った。
「そうだな」
おれはその日の夜、丘のてっぺんで空を見た。
星が出ていた。
広場の方向に、でかい木の黒板がある。暗くてよく見えないけど、確かにそこにある。
何人が刻んだんだろう。どんな字が並んでいるんだろう。
柴犬は何も言わなかった。しっぽだけが、ゆっくり揺れていた。




