第一話 ピグミーマーモセットが、押した 語り手:ピグミーマーモセット
でかい木の黒板は、今日も真っ白だ。 扉は、今日も静かに立っている。 鍵は、かかっていない。
でかい木は、ずっとここにいた
根が、知っている。
地面の下で、根はどこまでも広がっている。犬の丘の方向へ。猫の路地の方向へ。ウサギ草原の方向へ。トリの枝道の方向へ。サルの森の方向へ。
それぞれの場所の土のにおいが、根を通じて伝わってくる。
犬の丘の土は、いつもすこし湿っている。雨が降るたびに走り回るから、踏み固められている。猫の路地の石畳の下は、静かで冷たい。ウサギ草原の土は、やわらかい。何度も走られて、何度も転ばれた土だ。トリの枝道の根元は、木の根が複雑に絡まっていて、その間にいろんなものが落ちている。サルの森の土は、深いところまで掘られている。だれかが穴を掘りすぎたのか、根の先がその空洞に触れることがある。
みんなのことを、根は知っている。
黒板は、ずっと真っ白だった。
チョークが置いてある。ずっと置いてある。
だれかが書くことを、待っていた。何年も、何年も。
待つことは、苦ではない。枝は年ごとに伸びた。根は年ごとに広がった。嵐が来た。雷が落ちた。それでも、揺れなかった。揺れる必要がなかった。子どもたちがいた。いつも、いた。それだけで、十分だった。
根の先の方に、気配がある。
いつもとは違う気配だ。水路の奥、もっと遠い場所から届いてくる。まだ名前を知らない気配が、いくつかある。
岩のそばから。深い水の底から。広い草むらの向こうから。太い木の根元から。遠くて、静かな場所から。
近づこうとしている、のかもしれない。まだよくわからない。でも、確かに動いている。根がそれを感じる。何かが、少しずつこちらへ向かっている。
急がなくていい。来たくなったとき、来ればいい。
その朝、扉の前に小さな気配があった。
とても小さい。でも、はっきりした気配だ。迷っている感じではない。来ようとして、来た、という感じだ。
扉が開いた。音もなく、するりと。
小さな足が、石畳に触れた。
根が、それを感じた。枝が、それを見た。黒板が、待っていた。チョークが、そこにある。
白い黒板に、小さな字が刻まれた。
「こんにちは」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
長い時間をかけて待っていたのに、たった三文字で、何かが始まった。黒板は、いつもそうだ。たった一言が、世界を動かす。
枝の先から、広場を見おろす。
石畳がある。噴水がある。扉がある。そして今日から、その扉が開いている。
子どもたちが来るだろう。いろんな子が。いろんな声が、広場に満ちるだろう。
根が待っている。枝が待っている。黒板が待っている。
この木は、ずっとここにいる。これからも、ずっとここにいる。
その朝、ぼくは扉の前に来た。
理由はうまく言えない。ただ、来た。
サルの森から、だれも起きていない時間に。足音を消すようにして。もともとぼくの足は小さいから、ほとんど音がしない。
扉は木でできていて、古くて、鍵穴がある。鍵は、さしていない。ずっと知っていた。前に一度そばを通ったとき、鍵穴に鍵がないことに気づいた。
ぼくは扉の前に立って、しばらく何もしなかった。
向こうから、水の音がする。さらさらという、静かな音だ。
ぼくは前足を伸ばした。
扉に触れた。木の感触がした。古くて、でも丈夫な感じがした。
少しだけ押した。
扉が、ひらいた。
音もなく、すっと。まるで最初から、押されるのを待っていたみたいに、ひらいた。
ぼくはしばらく動かなかった。
向こうに、広場がある。石畳が続いていて、噴水がある。噴水からさらさらと水が流れている。ずっと聞こえていた音の正体だ。
空が広い。
エリアの中にいると、木や建物で空が区切られている。でもここは遮るものが少なくて、空がとても広く見える。
もう一歩。また一歩。
ゆっくり広場の中へ進んだ。
噴水のそばまで来た。水がさらさら流れている。前足を差し入れてみた。冷たかった。気持ちよかった。
それから、でかい木の黒板が見えた。
本当に、でかい。
幹が太い。根がどこまでも広がっている。枝は空へ向かって、何本も何本も。
黒板には、何も刻まれていない。真っ白だ。
黒板の下に、チョークが一本置いてある。
ぼくはそのチョークを見た。
だれが最初に刻むのか、ずっとこの黒板は待っていたんだろうな、と思った。
ぼくは、チョークを取った。小さな手に収まる、白いチョーク。
それから、黒板に爪の先でゆっくりと刻んだ。
「こんにちは」
ちいさな字だ。ぼくの字は小さい。体が小さいから。
でも、ちゃんと刻めた。
刻んでから、一歩下がって黒板を見た。真っ白な黒板に、「こんにちは」という小さな字。
それだけだ。でも、なんか、いい感じがした。
しばらくそこに立っていた。それから、サルの森へ帰った。
途中で振り返ったら、扉がまだ開いていた。
閉め忘れた。
戻って閉めようかと思ったけど、なんとなく、開けたままにした。また来ればいい、と思ったから。
その日の夕方、ゲラダヒヒが広場の前を通った。扉が開いていた。
中をのぞいた。広場が見える。噴水がある。でかい木の黒板がある。
黒板に、小さな字で何かが刻まれている。
近づいて、目を細めて文字を追った。
「こんにちは」
だれが刻んだのか、わからない。
ゲラダヒヒはしばらく黒板を見た。それからチョークを取って、小さな字の下に刻んだ。
「こんにちは」
それだけ刻んで、またサルの森へ戻った。




