第一話 ニホンザルと温泉独占問題
サルの森は今日も、うるさい。 でも、それがこの森の普通だ。 ただし温泉だけは、静かだ。 ニホンザルがそう決めているから。
サルの森について
サルの森は、木が多くて空が狭い。
見上げると枝が折り重なっていて、その隙間から空がのぞいている。地面は木の根と落ち葉で覆われていて、踏むたびにがさがさ音がする。どこかで常に何かの音がしている。枝が揺れる音、何かが落ちる音、だれかが叫ぶ声。
森の奥に温泉がある。
岩の間から湯が湧いていて、湯気がもわもわと上がっている。冬は特に気持ちいい。この温泉を、ニホンザルは「自分のもの」だと思っている。根拠はない。でも思っている。
発明工房もある。チンパンジーが作った場所で、道具や装置が並んでいる。本人は「工房」と呼んでいるが、外から見ると壊れかけたものが積み上がっている場所に見える。本人は「試作品の保管庫」と言っている。
高い木のブランコは、クモザルのホームグラウンドだ。地面から見上げてもよく見えない高さに、蔓を絡めたブランコがある。
ここに暮らすサルは、十匹だ。
ニホンザルは今日も、温泉に入っていた。
ひとりで。
肩まで湯の中に沈んで、目を細めている。湯気がもわもわと上がって、岩の表面を湿らせて、落ち葉のにおいと混ざる。冬の朝の森の空気が、温泉の熱で少しやわらかくなる。
ニホンザルは、日本に生きるサルだ。世界で最も北に生息するサルとして知られていて、雪の中でも平気で暮らせる。温泉に入る習慣を持つことで有名で、寒い季節になると温泉につかって温まる。赤い顔と、短い尾が特徴だ。群れの中でのランク意識が強く、自分の縄張りには敏感だ。
「入っていい?」
声がした。テングザルだ。温泉のそばに立っている。
「……ダメだ」とニホンザルは言った。
「なんで」
「今日は気分じゃない」
「気分で決めるのか」
「そうだ」
テングザルは少し考えた。
「きのうも気分じゃなかった」
「そうだった」
「一昨日も」
「そうだった」
「つまり、おれが入ろうとするときはいつも気分じゃない?」
「そういうことだ」
テングザルはため息をついて、森の別の場所へ向かった。
夕方、ゲラダヒヒが温泉のそばを通った。
ゲラダヒヒは、エチオピアの高原地帯に生きるサルだ。草だけを食べる霊長類として知られていて、草の品質にこだわりが強い。落ち着いた性格で、滅多に騒がない。
「温泉、いつもひとりだな」とゲラダヒヒが言った。
「そうだ」
「入りたい子、多いと思うけど」
「それは知ってる」
「知ってて、ひとりで入ってる?」
「そうだ。好きだから、ひとりで感じたい」
「なるほど」とゲラダヒヒは言って、また歩きはじめた。
「それだけか」とニホンザルが言った。
「あとは自分で考えろ」
ゲラダヒヒは行ってしまった。
ニホンザルは湯の中で、少しだけ考えた。
好きな場所はひとりで感じたい。その気持ちは本物だ。でも「みんなが入りたいのを知っている」のも、本当だ。
「……うるさいな」
だれもいない温泉で、ひとりごとを言った。湯気が静かに上がった。
翌朝、ニホンザルが温泉へ来ると、テングザルがすでにいた。
「……いつ来た」
「夜明け前」
「早すぎる」
「早く起きたから」
ニホンザルは温泉を見た。テングザルが入っている。
「出ろ」
「嫌だ」
「ここはおれのだ」
「どこにそう書いてある」
「……書いてない」
「なら共有だ」
ニホンザルはしばらく立っていた。テングザルは知らん顔で湯に浸かっていた。
「……入るぞ」
「どうぞ」
ニホンザルは温泉に入った。端と端に分かれて、ふたりで黙って入った。
しばらく経って、テングザルが言った。
「あったかいな」
「……そうだ」
「ひとりより、ふたりのほうが」
「……どっちも同じだ」
「本当に?」
ニホンザルは何も言わなかった。
答えを言わなかったけど、その日は温泉から出るのが、いつもより少し遅かった。




