第六話 ロシアンブルーの詩が誰かに届いた日
路地の奥の壁に詩が増えるようになって、どのくらい経つだろう。
だれも正確には知らない。気づいたらあった、という感じだ。一週間に一度くらい、新しい詩が増える。古いものは消えずに残っていて、壁がだんだん詩で埋まってきている。
だれが描いているか、みんなうすうす知っていた。
細い字の形と、詩の雰囲気が、ロシアンブルーの感じがした。
でも「ロシアンブルーが描いてる?」と口にした子は、なんとなくいなかった。言ってしまうと何かが変わる気がして、みんな黙っていた。
その日の夕方、スフィンクスは路地の奥の壁の前に立っていた。
いつもより長く、詩を見ていた。
「よるに そとに いると
ほしが みえる
おなじ ほしを
だれかも みている かもしれない」
昨日の夜、スフィンクスはこの詩を読んで、空を見上げた。星があった。
その詩の横に、今日あたらしい詩が増えていた。
鼻を近づけて、目を細めて、一文字ずつ追った。
「かわっている といわれることは
ちがう ということだ
ちがうことは
わるいことじゃない
たぶん」
「たぶん」という最後の一言が、なんとなくよかった。
断言しないところが、正直な感じがした。書いた子も、少し迷いながら描いたのかもしれない。
スフィンクスは、しばらく壁の前に立っていた。
それから、小さな声で言った。
「……ありがとう」
だれも近くにいなかった。
でも、少し先の路地の角で、ロシアンブルーが立ち止まっていた。
ロシアンブルーは、ロシア生まれの猫だ。灰みがかった青みがかった独特の毛色を持ち、緑がかった目が静かだ。知らない子と話すのが少し苦手で、じっと観察していることが多い。詩を描くのが好きで、路地の奥の壁にこっそり残している。だれかが読んでいる気がするけど、だれなのかは知らない。知りたいような、知らなくていいような、そういう気持ちがある。
スフィンクスの声が、かすかに聞こえた。
聞こえてしまった。
詩を読んでくれた子がいた。声をかけてくれた子がいた。自分に向かって言ってくれた言葉かどうかはわからない。でも、あの詩を描いたのはロシアンブルーだから、ロシアンブルーに届いた。
胸のあたりが、あたたかかった。
スフィンクスが立ち去る気配がして、ロシアンブルーはそっと路地の角から鼻先を出した。
スフィンクスの後ろ姿が、路地の向こうへ消えていくところだった。
声をかけようとした。
「す、」
出なかった。
ロシアンブルーは声をかけるのが苦手だ。知らない子はもちろん、知っている子にも、自分から声をかけるのが難しい。
「……また詩に描く」
小さく言った。だれも聞いていなかった。
でもその夜、ロシアンブルーは壁の前に来て、爪の先でそっと新しい詩を刻んだ。
「ありがとう といわれると
どこかが あたたかくなる
ことばは とどくんだな
おそるおそる でも」
翌朝、壁を見たスフィンクスは、しばらくその詩の前に立っていた。
それから、
「ロシアンブルー」
と、声に出した。
もちろんロシアンブルーはいない。でも名前を呼びたかった。
それだけのことだ。それで十分だった。




