第三話 ターキッシュバンが水に落ちた日
ターキッシュバンが広場のほうへ向かったのは、朝だった。
水のにおいがする。
噴水のにおいだけじゃない。もっと下のほう、地面の下から、別の水のにおいがする。ターキッシュバンは水のにおいに、うるさいくらい敏感だ。
ターキッシュバンは、トルコ生まれの猫だ。白い体に、頭としっぽの先だけ色がついている。ほとんどの猫が水を嫌がるなかで、ターキッシュバンは水が大好きだ。池でも川でも平気で入る。猫の路地の全員に引かれているが、本人は全く気にしていない。
扉のそばの石畳に、丸い窓があった。
前から気になっていた。丸くて、縁がなめらかで、下をのぞくと水が見える。噴水よりも暗くて深い水だ。
しゃがんで、のぞいた。もっと近く。もっと近く。鼻先を窓に押しつけた。
その瞬間、水面に何かが動いた。
ターキッシュバンは飛び上がった。
後ろ足が石畳を蹴って、体が宙に浮いて、着地するとき噴水の縁に激突して、そのまま落ちた。
盛大な水しぶきが上がった。
ターキッシュバンは噴水の中で一瞬固まった。それからばしゃばしゃと泳いだ。
落ちたけど水なので、全然平気だ。むしろ気持ちいい。
ひとしきり泳いでから、縁に前足をかけて上がった。びしょぬれだ。
丸窓のほうを見た。
水面が少し揺れている。さっき何かが動いた。大きいものの気配がした。
「…だれかいる?」
返事はなかった。水が揺れているだけだった。
ターキッシュバンはしばらく丸窓の前にしゃがんでいた。
気配はある。でも声はない。
「また来る」
丸窓に向かって言った。
返事はなかった。でも、水面がまたすこし揺れた。気のせいかもしれない。
夕方、びしょぬれで路地に帰ってきたターキッシュバンに、三毛猫が言った。
「また落ちたの」
「違う。今日はちゃんと入った」
「どっちも同じじゃない」
「違う。意味が違う」
三毛猫はため息をついた。
「それで、広場に何があったの」
「丸窓がある。下に水が見える。中に何かいる気がする」
「何かって?」
「わからない。でも、いる」
「見たの?」
「動いたのを見た。大きかった」
三毛猫はしばらく、ターキッシュバンのびしょぬれの毛を見た。
「…また行くの」
「行く。気になるから」
「そう」
三毛猫はそれ以上何も言わなかった。
でも、ターキッシュバンが路地を歩いていったあと、ひとりで扉の方向を向いた。
丸窓。水。大きな何か。
「…いつか、わかるかもしれない」
独り言を言った。
夜の猫の路地に、静かな風が通った。




