ミラ・ルーゼンの過去
翌朝、食堂の空気は妙に静かだった。
昨日の一件を引きずっているのは、たぶん俺だけじゃない。
フィオナはいつも通り朝食を並べていたが、動きが少しだけ硬い。
リーゼはノートを開いているくせに、今日はまだ一文字も書いていなかった。
そしてミラは、席に着いてからしばらく、ずっと黙っていた。
逃げるなら昨夜のうちに逃げていただろう。
でもそうしなかった。
フィオナが部屋の前に立っていたからか、それとも別の理由かは分からない。
ただ一つ言えるのは、今ここにいる時点で、あいつも何かを決めたんだろうということだ。
やがて、ミラが小さく息を吸った。
「……フィオナ」
唐突に名前を呼ばれて、フィオナが顔を上げる。
ミラは少しだけ迷うように視線を揺らしてから、静かに言った。
「昨日、部屋の前にいてくれたよね」
フィオナは数秒だけ黙った。
否定もしない。
肯定もしない。
その沈黙が答えみたいなものだった。
「……ありがとう」
ミラは小さく頭を下げる。
「追い出されても仕方ないと思ってたんだ。迷惑をかけてるのは分かってたし、実際、ここにいるとみんなを巻き込むかもしれない」
そこで一度だけ言葉を切る。
「でも、ここに来てから……誰も無理に責めなかった。放り出しもしなかった。ご飯があって、寝る場所があって、普通に席があって、ボクがいても日常が続いてた」
ミラは少しだけ苦く笑った。
「それが、思ってたよりずっと救いだった。ここにいていいんじゃないかと思えた」
フィオナが黙ったまま聞いている。
ミラはそのまま続けた。
「……ボクはここにいたい。彼方の星のみんなとこれからも過ごしたい」
その一言は、思ったより真っ直ぐだった。
言い訳でもなく、逃げでもなく。
ちゃんと自分で選んで言った声だった。
「だから、曖昧なままここにいるのは嫌なんだ」
ミラは俺たちを順に見た。
「ここに残りたい。だからこそ、ボクのことはちゃんと話しておきたい。……聞いてくれる?」
フィオナが静かに椅子を引く。
リーゼはノートを閉じた。
聞く体勢になったんだな、と分かる。
俺も小さく息を吐いて、黙ったまま先を待つ。
ミラはそこで一度だけ息を整えた。
「第七監査部がどういう部署で、ボクがそこで何を見つけて、どう告発したか。そこまでは、昨日話したよね」
そして、ほんの少しだけ目を伏せる。
「じゃあ、今日はその先の話をする」
ミラの指先が、膝の上でわずかに強張った。
「ボクの両親は、小さな街のギルドにいたんだ」
ミラはゆっくり話し始める。
「大きくもないし、有名でもない。地方にいくらでもあるような、普通のギルドだったよ」
普通のギルド。
特別な英雄でも、伝説の冒険者でもない。
ちゃんと生きて、ちゃんと働いてた人たちだったんだと思った。
「でも、受けた依頼が悪かった」
ミラはそこで一度だけ言葉を切る。
「本来なら、そのギルドが受けるべきじゃない依頼だった。査定よりも危険度が高かった。実力よりも深いところに踏み込まなきゃいけない内容だった」
リーゼが小さく目を細める。
だが今は何も言わない。
「でも、その時のボクはまだ幼くて、そこまでのことは知らなかった」
ミラの声は静かだった。
「ただ、危険な依頼で両親が死んだ。それだけしか分からなかった」
食堂が静まる。
「だから最初は、王都探索局に入れば何かが分かる、なんて思ってたわけじゃない。……ただ、ボクは正しいことをする人になりたかった」
ミラは指先をぎゅっと握る。
「誰かが止めるべきものを、ちゃんと止められる側に行きたかった」
少しだけ苦く笑う。
「それで王都探索局に入った。第七監査部に入った。査定と監査の仕事を覚えて、昔の記録も見られるようになって――そこでやっと知ったんだ」
そこでミラは顔を上げた。
「ボクの両親がいたギルドの査定記録も、不正で動かされてたって」
フィオナもリーゼも静かに話を聞き続ける。
「最初は、その街のギルドだけが狙われたのかと思った。でも違った」
ミラは淡々と続ける。
「本命のギルドに高い査定を通すために、他のいくつかのギルドの数字も少しずつ動かして、全体の辻褄を合わせてた」
声は平坦だった。
だが、その平坦さが逆に辛く感じた。
「ボクの両親がいたギルドは、その帳尻合わせに使われただけだった」
短く息を吸う。
「……皮肉だよね」
ミラは笑った。
笑ったが、笑えていない顔だった。
「自分の両親がされたことを、ボクも知らず知らずにしてたんだから」
俺は何も言わない。
言えない、の方が近い。
第七監査部に入ってからのミラは、たぶん真面目に仕事をしていたんだろう。
査定を見て、記録を作って、監査を通して。
正しい側に立ってるつもりで。
でも実際には、同じ仕組みの中にいた。
しかもその仕組みが、自分の両親を殺したものと同じだった。
そりゃ壊れる。
「ボクの両親は、誰かが正しく査定していれば死ななかった。だからボクは、正しくあろうとした。査定の不正を止める側にいようとした」
そこで視線が少しだけ下がる。
「でも本当の王都探索局には、正しいことをする場所なんてどこにも存在しなかった」
食堂が、しんと静まる。
フィオナもリーゼも何も言わない。
俺だけが、少し間を置いて口を開いた。
「重いな」
ミラがこっちを見る。
「……それだけ?」
「だって重い話を聞いたら、重いって言うしかないだろ」
ミラが少しだけ目を見開く。
たぶん期待してた答えじゃないんだろう。
慰めだとか、励ましだとか、そういう綺麗なやつを待っていたわけじゃないにしても、もう少し何かあると思ったのかもしれない。
でも、こっちにそんな上等なもんはない。
慰めの言葉なんか持ち合わせていない。
正しいとか正しくないとか、そういうのを立派に語れるほど俺は綺麗に生きてない。
ただ、こいつが泣きそうな顔をしているのに、泣けないでいるのは分かる。
正義に縛られて、泣くことすら自分に許していない。
そういうのは、見ていてきつい。
「なぁ、ミラ」
「……はい」
「お前の両親の話は、俺にはどうしてやることもできん。過去は変えられない」
「分かってる」
「だが、今のミラがどうするかは、自分が決めていいと思う」
ミラが静かにこっちを見る。
「これからは……正しいからやるんじゃなくて、やりたいからやる。それでいいんじゃないか?」
その瞬間、ミラの目から一滴だけ涙が落ちた。
すぐに手で拭う。
なんとなく、泣き慣れていない人間の拭い方だったように思えた。
「……ずるいな」
「何がだよ」
「そういう言い方されると、弱くなりそう」
「別に強くなくていいだろ」
ミラは目元を押さえたまま、小さく笑う。
「ボクは、強くないと駄目なんだと思ってた」
「でも、ずっとそうしてきて疲れたんなら、別のやり方試してもいいんじゃないか?」
ミラは今度こそ何も言わなかった。
ただ、もう一度だけ目元を押さえた。
少し長かった。
その横に、フィオナが黙って茶を置く。
リーゼは珍しく何も分析せず、そのまま少し席を引いた。
空気が、ほんの少しだけ緩む。
さっきまでの重さが全部消えたわけじゃない。
でも少なくとも今は、事情を知らない他人同士の食卓じゃなかった。
「……ありがとう」
ミラが小さく言う。
誰に向けたのかは分からなかった。
たぶん、全員にだ。
そこから少しだけ話が弾んだ。
大笑いするようなものじゃない。
リーゼが、
「第七監査部の報告様式、少し興味ありますね」
と真顔で言い出して、ミラが
「え、そこに食いつくの?」
と呆れ、フィオナが
「そんなこと教えないでいいですよ」
と挟むくらいの、そんな小さなやり取りだ。
でも、それで十分だった。
ミラも、昨日までみたいにいつでも逃げる準備をしている顔ではなかった。
なんとなく、明るいいつもの空気に戻ったような気がした。
だが一方で、俺の目には別のものが見えていた。
【ギルド所属:王都探索局 第七監査部】
【状態:最適化未処理】
ミラの頭上。
相変わらず、そこだけ変わらない。
フィオナもリーゼも、どこかの段階で所属欄が彼方の星に変わった。
だがミラは違う。
本人がここに残りたいと言った。
こっちも受け入れている。
それなのに表示だけは動かない。
つまり、これは本人の気持ちの問題だけじゃないのかもしれない。
こっちが受け入れたから変わるわけでもない。
今の所属側が手放していない限り変わらない。
そういうことなのか?
そこまで考えたところで、玄関の方で音がした。
協会経由の配達だった。
受け取って差出人を見た瞬間、嫌な顔になった自覚があった。
王都探索局 第七監査部。
「……さっそく来たか」
封を切る。
中には、いかにも事務的な文面の通知が入っていた。
彼方の星に対する活動実地調査の正式通知。
調査実施日。
対象項目は、所属構成員、依頼実績、昇格後活動内容の照合。
そして一番下。
同行調査官名。
セドリック。
ハンナ。
なるほど。
分かってはいたが、向こうは本気で俺たちを潰す気らしい。




