第8話 氷の狼
「俺が隙を作る」
「よかろう」
二人が、目で合図した。
バルディンが走り出す。
ゼヴァルは地面に左手を突いた――水色の光が輝く。
「氷の牙」
――石畳に白い霜が走る。
鋭い氷柱が、アポスタティアの足元から次々と突き上がり、牙を剥く。
「バルディン!」
バルディンが姿勢を低くして、そこへ駆け込む。
氷柱の隙間を抜け、アポスタティアの懐へと迫る。
「ぬうん!」
斧が横に薙がれた――が、刃は空を切った。
「ちっ、面倒な――」
バルディンが身を翻す。
「ゼヴァル、後ろだ!」
ゼヴァルは振り返った。
アポスタティアが、リエルのすぐ目の前に立っていた。
蒼白い指が、リエルの頬へと伸びていく。
「あっ……」
リエルは後ずさろうとした。
足が、動かない。
ゼヴァルは地面を蹴った。
「やめろ!」
「うるさいですねぇ」
アポスタティアの指が止まる。
その手がゼヴァルへと向けられる。
「目障りです」
気だるげに、宙を払う。
「――っ」
ゼヴァルの足が、止まった。
鈍い痛み。
右の脇腹が、抉られていた。
握り拳ほどの空洞。
そこから血が滴り、口元からも。
「ゼヴァル!!!」
バルディンの怒号。
ゼヴァルの膝が折れる。
手から離れた剣槍が、甲高い音を立てる。
血が、口から溢れる。
「ゼヴァルさん!」
リエルの悲鳴。
ゼヴァルの意識が途絶えていく。
体が熱い。瞼が、重い。
バルディンが、何かを言っている。
女の声、敵、地面……魔物。
……倒れる寸前で、左手が地面を掴んだ。
(まだ、だ)
――その時。
鉤爪と牙の意匠が、布地を透かして浮かび上がった。
眩い水色が、袖を突き抜け光を放つ。
(これ、は……)
あの、時の……。
――噴き上がる、白い冷気。
傷口が、凍りつく。
滴りかけた血も、空中で。
痛みが遠のいていく。
バルディンの声が聞こえる。
目の前の敵が、見える。
「……!」
アポスタティアの姿が歪み、リエルの前から消えた。
霜が、ゼヴァルの足元に降りていく。
放射状に広がり、白い煙が立ち上る。
――氷が、形を成していく。
四肢が氷上を捉え、背が、持ち上がる。
「おやおや、これはこれは」
数歩離れた場所から、アポスタティアは見た。
稜線を走る、蒼白い光の筋。
研ぎ澄まされた筋骨の輪郭。
鋭角に尖った、牙と鉤爪。
双眸の底に凝る、凍てつく冷気。
その姿は、狼を模していた。
「――数千年振りの再会だ」
氷の獣が、駆けた。
アポスタティアが右手をかざす。
獣は、消えない。
「――っ!」
牙が、アポスタティアの横腹を食いちぎった。
駆け抜けた氷の獣が崩れ、砕ける。
蒼白の氷片が、舞い散る。
「この力は、祝福……?」
リエルが呆然とする。
「お前だけが、特別じゃない、ってことだ」
ゼヴァルは膝を突いたままだ。
肩で息をしているが、その目は敵を捉えている。
「くくく、そうでした。数千年振りで忘れていましたよ」
アポスタティアが左脇腹に目を落とす。
血は流れていない。
ただ、穴が開いているだけ。
「忌々しい力だ」
沈んだ赤の瞳を、ゼヴァルへと向けた。
「油断するな!」
「ドワーフ、どけ!」
ゼヴァルに駆け寄るバルディン。
その後ろにエスラドール。
既に、弦は引き絞られている。
バルディンは横に跳んだ。
――三本の矢が、放たれた。
「一切を消滅させる力」
空間ごと歪み、矢は消えた。
アポスタティアは、指先で抉られた跡をなぞった。
ゼヴァルをじっと見つめる。
「今日のところはお開きとしましょう」
唇にそっと手を添える。
「またお会いしましょう、氷の狼さん」
軽く右手を上げる――アポスタティアは、霧が散るように消えていた。
後に残されたのは石畳の上に散った氷片と、氷の獣の牙にちぎられた黒い布切れだけだった。
ゼヴァルの体が、前に傾いていく。
「ゼヴァルさん!」
駆け寄ったリエルが、両手でそれを受け止めた。
細い腕では、支えきれない。
「うう」
二人はそのまま、氷片の散った石畳の上に倒れ込んだ。
リエルの膝に、ゼヴァルの頭が預けられる。
「ゼヴァルさん!!」
顔が白い。目も開いていない。
息は……まだある。でも荒い。
袖の光はもう消えている。
傷口の氷は溶けて、血が……こんなに……。
「酷い怪我だ……」
リエルが振り返る。
バルディンが膝を突いていた。
ゼヴァルの首筋に当てた指が、微かに震えている。
「それに、アストログマを使い過ぎて衰弱しておる。昔、一度だけ同じようなことがあった」
髭の奥から、低い声。
「……治せるか」
「……やってみます」
リエルはこくり、と頷いた。
ゼヴァルの頬に左手で触れる。
冷たい……このままでは……。
「死なないで……」
右手をかざす。
刻印が、淡い金色の光を帯びる。
指先から、光の粒が零れ落ちていく。
「お願い――」
この人に、生きていてほしい。
なんの理由も無しに願いを聞き入れてくれたこの人を、死なせてはいけない……!
――花弁の意匠が、強い光を放つ。
光の粒が形を変え、撚り糸のように伸びていく。
いくつもの糸が、ゼヴァルの傷口へ注がれる。
「たまげた……」
バルディンが唸った。
傷の内側で、光の糸が絡み合う。
裂けた肉が寄り合い、剥き出しの骨を覆っていく。
「――っ」
ゼヴァルの唇から、微かな息が漏れた。
リエルは、額の汗を拭った。
(あと、もう少し……)
やがて、新しい皮膚が傷口を塞いだ。
その上に、細く白い線が一本だけ残った。
「もう、大丈夫です……」
光が消えていく。
リエルの体が、前へ傾いた。
頬に添えられていた手が、滑り落ちる。
――ゼヴァルの胸の上に、リエルの額が預けられた。
「感謝するぞ」
バルディンがリエルの体を支え直し、ゼヴァルの隣に寝かせる。
二人の胸は、同じ間隔で上下していた。
エスラドールへ目を向けて、尋ねる。
「これからどうする」
エスラドールは、兵の亡骸を静かに見下ろしている。
「愚問だな」
エスラドールの顎が、黒く汚れた空を指した。
悲鳴はまだ、止んでいない。
「脅威は去っていない。私は行く」
「お前一人では――」
「不要だ」
エスラドールが、炎が燃える方へと歩き出す。
「お前はファイリリエネスと、そのハーフエルフを守れ」
数歩進んで、付け加える。
「長老には私から伝えておく。侵入したハーフエルフとドワーフは……里の恩人であるとな」
遠ざかっていく背中を、バルディンは黙って見送った。
「やれやれ」
髭を撫で、地面に腰を下ろす。
背嚢から使い古した布を取り出し、ゼヴァルにかけてやる。
もう一枚は、リエルに。
二人の肩が、落ち着いたように布の下で沈んだ。
「ひとまずは、か」
バルディンは革袋からぶどう酒を口に含んだ。
白い石畳が、陽に染まっていく。
赤い炎が、その陽を受けて揺らめく。
その中で、琥珀色の瞳が、二人の寝顔を温かく見守っていた。
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