第7話・氷の狼
ゼヴァルとバルディンが目を見合わせた。
「俺が隙を作る」
「よかろう」
ゼヴァルが地面に左手を当てる。
瞬間、アポスタティアを取り囲む石畳から鋭い氷柱が次々と突き立った。
「バルディン!」
十数本の氷柱が四方から伸び、アポスタティアの逃げ道を塞ぐように牙を剥く。
その隙間を縫うように、バルディンが低く駆け込む。
「ぬうん!」
片手斧を肩の高さまで引き絞り、そのまま全身の捻りを乗せて横に薙いだ。
しかし、刃が空を裂く音だけが響く。
アポスタティアの姿は霧が散るように消えており、氷柱もただ虚空を囲むだけに終わった。
「ちっ、面倒な——」
バルディンが身を翻す。
「ゼヴァル、後ろだ!」
バルディンが叫び、ゼヴァルは振り返る。
アポスタティアはリエルのすぐ目の前に佇んでいた。
穏やかな微笑を湛えたまま、青白い指先がリエルの白い頬に向かってゆっくりと伸ばされる。
リエルが目を見開いて後ずさろうとするも、足がその場に縫い付けられたように動けなかった。
「やめろ!」
ゼヴァルが叫び、アポスタティアへ駆け寄る。
「うるさいですねえ」
リエルの頬に触れる寸前だった指先が止まり、ゼヴァルへと向けられた。
「目障りです」
青白い指先で気だるげに宙を払う。
踏み込んだゼヴァルの右脇腹が、音もなく抉れた。
「——っ」
ゼヴァルの喉の奥で息が詰まる音が鳴った。
肋骨の断面と裂けた肉の赤黒い輪郭が、握り拳ほどの空洞となって外套の下から覗いている。
「ゼヴァル!」
バルディンの怒号が轟く。
ゼヴァルの膝が折れ、剣槍が手から滑り落ちて石畳に甲高い音を立てた。
支えを失った体が傾き、口の端から赤いものが糸を引いて垂れた。
「ゼヴァルさん!」
リエルの悲鳴が石畳の上で跳ね返る。
ゼヴァルの青い瞳が焦点を失いかけ、瞼が重く沈んでいく。
折れかけた膝が石畳を擦ったが、片手が地面を掴んで崩れ落ちる寸前で身を支える。
その時、左腕の刻印に刻まれた鉤爪と牙の意匠が、袖を突き抜ける程の強い水色の光を放った。
抉られた脇腹から冷気が噴き上がり、剥き出しになった肋骨と肉の断面を白い霜が這い上がっていく。
滴り落ちかけた血が空中で凍てつき、傷口の輪郭が蒼く閉ざされていった。
「…!」
アポスタティアがリエルの前から姿を消した。
ゼヴァルの足元の石畳は一面に凍りついており、その氷上から白い煙と共にゆっくりと氷で象られた一頭の獣が音もなく立ち上がった。
「おやおや、これはこれは…」
アポスタティアがゼヴァルから数歩離れた場所からじっと氷の獣を見つめる。
鋭角に尖った牙と鉤爪、研ぎ澄まされた筋骨の輪郭、その稜線に沿って蒼白い光の筋が走り、双眸の底には冷気が静かに凝っている。
その姿は、狼を模しているかのようだった。
「数千年振りの再会だ」
氷の獣がアポスタティアへと駆けた。
アポスタティアは片手を獣の鼻先へ向けて静かにかざす。
しかし、獣の輪郭は揺らぎもしなかった。
「——っ!」
剥き出しの牙が、アポスタティアの胴を真横から噛み砕くように食い千切った。
駆け抜けた氷の獣は砕けるように崩れて、石畳の上に細かな氷片を散らす。
「この力は…」
リエルが目を見開く。
「祝福…?」
「…お前だけが、特別じゃない、ってことだ…」
ゼヴァルが肩で息をする。
片膝をついたまま、静かに石畳の上に立ち尽くすアポスタティアを睨みつける。
「くくく、そうでした…数千年振りで忘れていましたよ」
アポスタティアは自らの腹に目を落とし、指先で抉られた輪郭をなぞった。
「忌々しい力だ」
ゆっくりとゼヴァルへ顔を向ける。
暗い赤の瞳が、初めてリエル以外の者を正面から捉えた。
「油断するな!」
バルディンが駆け寄ってくる。
「ドワーフ、どけ!」
距離を詰めてきていたエスラドールが叫んだ。
既に弦は限界まで引き絞られ、三本の矢が番えられていた。
バルディンが足を止めて横に跳んだと同時に、矢が放たれる。
「…一切を消滅させる力」
三本の矢が、アポスタティアの喉元に届く寸前で空間ごと抜け落ちた。
アポスタティアは腹の傷に指先を添えたままゼヴァルを見返す。
「今日のところはお開きとしましょう」
唇にそっと手を添える。
「またお会いしましょう、氷の狼さん」
片手を軽く挙げると、アポスタティアの姿は霧が散るように消えていった。
後に残されたのは、石畳の上に散った氷片と、牙に抉られた黒い布切れだけだった。
ゼヴァルの体がゆっくりと傾いていく。
「…ゼヴァルさん!」
リエルが駆け寄り、崩れ落ちるゼヴァルの体を両手で支えた。
華奢な腕ではゼヴァルの胸板を受け止めきれず、二人はそのまま石畳の上に倒れ込む。
リエルの膝に頭を預けたゼヴァルの顔は白く、閉じた瞼は震える気配もなかった。
左腕の袖を突き抜けて輝いていた刻印も既に光を失い、脇腹の傷口を覆っていた氷が溶け出して血が流れ始めている。
「酷い怪我だ。それに、魔力を使いすぎて衰弱しておる」
バルディンが片手斧を腰に戻し、二人の傍に膝をついた。
「昔一度だけ同じようなことがあった…治せるか」
「…やってみます」
リエルは小さく頷いた。
ゼヴァルの頬に触れ、指先の温もりを伝えるように白くなった顔の輪郭をなぞる。
「死なないで…」
右腕の刻印が淡い金色の光を放ち始め、リエルの細い指先から温かな光の粒が零れ落ちていく。
「…っ」
ゼヴァルの眉が微かに寄った。
「…お願い」
リエルの囁きと共に、刻印の花弁の意匠が強い光を放った。
手から零れていた光の粒が絹糸のように細く引き伸ばされた光のより糸へと変わり、リエルの指先から幾条にも伸びてゼヴァルの傷口へと注がれていく。
糸は傷の内側で絡み合い、編み目を成しながら途切れた肋骨の断面へと張り巡らされていった。
裂けた肉の赤黒い輪郭が、内側から押し上げられるように盛り上がる。
「たまげた…」
バルディンが目を見開く。
ゼヴァルの剥き出しになっていた骨の上に薄い膜のような組織が這い広がり、幾重にも折り重なって厚みを増していく。
筋が一本ずつ編み直され、血管が細い枝のように走り、その上を新しい皮膚が静かに覆っていった。
ゼヴァルの喉から微かな呼吸の音が漏れ、リエルの額に小さな汗の粒が滲んだ。
光を注ぐ指先は僅かに震えていたが、ゼヴァルの頬に添えたもう一方の手は離されなかった。
やがて、握り拳ほどあった空洞はすっかり埋まり、新しい皮膚の上に細い白い線だけが一本、傷跡として残った。
リエルが長い息を吐く。
「もう、大丈夫です…」
淡い金色の光がリエルの指先から静かに消えていき、リエルの肩がゆっくりと前に傾く。
ゼヴァルの頬に添えられていた手が力を失って滑り落ち、ゼヴァルの胸の上に額が預けられた。
「感謝するぞ…」
バルディンは髭の奥で小さく息を吐いた。
リエルの身体をそっと支え直し、ゼヴァルの隣に横たえさせる。
バルディンは髭を撫でると、死体となった兵たちを見下ろしていたエスラドールに目を向けた。
「…これからどうする」
「愚問だな」
エスラドールの顎が黒く汚れた空の方角を指した。
遠くで何かを呼ぶ泣き声は今も続いていた。
「脅威は去っていない。私は行く」
「お前一人では——」
「不要だ」
エスラドールは倒れた兵の傍を通り過ぎ、バルディンに横顔を見せたまま立ち止まった。
「お前はファイリリエネスとそのハーフエルフを守れ」
エスラドールは再び歩み出した。
数歩進んでから、肩越しに振り返らずに付け加える。
「長老には私から伝えておく…侵入したハーフエルフとドワーフは、里の恩人であるとな」
梢が黒く染まる方角へとエスラドールの背が遠ざかっていく。
バルディンはその背を目で追っていた。
「やれやれ」
バルディンが肩をすくめ、二人へと目を戻す。
並んで横たわるゼヴァルとリエルの胸が、同じ緩やかな間隔で上下していた。
バルディンは髭を一度ゆっくりと撫でると、地面に腰を下ろして背嚢から使い古した布を引き出した。
ゼヴァルの胸の上までそれを引き上げ、もう一枚をリエルの肩にかけてやると、華奢な肩がほんの少し毛織の下で落ち着くように沈んだ。
「…ひとまずは、か」
琥珀色の瞳が白い陽に染まる石畳と、その上で眠る若い二人の寝顔を、ただ黙って見守り続けていた。




