第4話 檻
その少女は、温かな木漏れ日の端っこを、今日も下を向いて歩いていた。
誰もが少女に道を空けて立ち去る。
そこにいない者として扱われる。
『エスラドール』の射るような視線を、遠く後ろから背中に受ける。
それが、『リエル』にとっての里での日常。
あの日から、何十年経ったのかはもう覚えていない。
だってそれは、千年の寿命を生きるエルフにとっては、ほんの些細な時間でしかないから。
けれど、これがあと九百年以上続くのか。
そう思うと、リエルは諦めとともに胸が苦しくなった。
石畳の小道を進む。
頬にかかった金色の髪を後ろへ流し、革の小袋を握り締める。
昨夜拾った、不揃いな欠片。
中の硝子の角が指の腹に刺さる。
じわりとした痛みが、意識を引き戻してくれる。
(確かめないと……)
あの二人の方に、会いに行かなければならない。
石畳の小道を抜けると、石の小屋が見えた。
リエルは小屋の扉を開け、薄暗い通路を進んだ。
突き当たりの扉の傍に、槍を持った衛兵が立っていた。
近づくと、衛兵はリエルの右腕を一瞥した。
いつものことだ。慣れている。大丈夫。
「すみません、中の方に用がありまして……エスラドールの許しもいただいています」
衛兵は何も言わず、扉へと向かう。
かんぬきが上げられた。
リエルは深呼吸して、扉を少しだけ開けた。
薄暗い。けれど窓がある。
そこから光が床に落ちて――壁に、二つの人影。
銀灰色の髪の、若い、多分人間の人。
それと、もじゃもじゃの髭が顔の大半を埋めた、ドワーフの人。
初めて見た。
これが、里の外の人……。
「……あの」
リエルはもう一度深呼吸して、中へと入った。
ゼヴァルとバルディンは、少女を見つめている。
「昨日、森でお会いした方々ですね……?」
二人は顔を見合わせた。
「そうだ」
答えたゼヴァルと、リエルは目が合った。
澄んだ青の瞳。
なのに何故だろうか、くすんで見えた。
「ごめんなさい、あの時は、その……外の方に会うのが初めてで」
リエルは言葉が続かなかった。
用意してきた言い方はいくつもあったし、昨日エスラドールとも練習したのに……。
いや、と首を振る。
「……お二人は、外の世界から来られたのですか?」
「ああ、旅をしている」
ゼヴァルが頷いた。
バルディンが太い腕を組む。
「そういうお前さんは何者だ」
「わたしは、ファイリリエネスと申します。リエルとお呼びください」
「そうじゃない。儂らに何の用だと聞いておる。この牢は見せ物か何かなのか」
「いえ、そういうわけでは……」
リエルは目を伏せた。
言わなければ。
きっと、こんな機会もう無い。
「外の世界のことを、聞きたかったんです。わたしは……この森から出たことが無く、出ることもできなくて、ずっと、知りたかったんです」
顔を上げる。
相手の目を見なければ、言葉は届かない。
エスラドールが教えてくれた。
「外の世界は、どんな人がいて、どんな場所なのでしょうか」
「答えたらここから出してもらえるのか」
「えっ……」
「お前が思っているほど、外の世界はいいものじゃない。だいたい、気になるなら自分で見に行けばいいだろう」
「それは……」
リエルは口を閉じた。
行けばいい。それができたら、どんなに……。
「わたしのアストログマは、里の中でも特別です。なので、この森を離れることを許されておらず……ただ、お話を聞きたくて……」
「特別、か」
ゼヴァルが、右腕に手を添えた。
「自分だけが特別だと思わない方がいい」
リエルの息が浅くなる。
「……あなたに何がわかるのですか」
自分の声ではないようだった。
「わたしは、光の女神の祝福を持つ者として、生まれた時から避けられてきました」
リエルは袖を引き上げた。
右腕に刻まれた淡い金色の刻印。
星形の模様と、緩やかな細い線が花弁を開くような意匠。
こんなものを、持って生まれたばっかりに……。
「外の世界を見たいと願うことも、何かを望むことも、何も、わたしには許されないんです」
二人はリエルから目を逸らさなかった。
リエルはふと、あの日のことを思い出した。
*
光のアストログマは、エルフだけに現れる特別な刻印と言われている。
その力は結界が主だとされていて、僅かながら傷を治す力もある。
昔、一度だけ、その僅かでは届かない子供を、リエルは救ったことがある。
名も知らない子だった。
息はほとんど止まりかけていた。
手を握っても呼びかけても、返事は無かった。
ただ、その子の胸に右手を添えた時の、小さな身体が冷たくなっていくあの感触を、リエルは今でも覚えている。
刻印が光を放っても、子供の瞼は動かなかった。
花弁の意匠が一際強く輝くと、その子は息を吹き返した。
里の皆が並べた言葉は、感謝ではなかった。
「その力は危険だ」
「里の秩序を乱しかねない」
「隔離するべきだ」
「外に出してはならない」
「里のためだ」
里のため。
その言葉の意味は、幼いリエルにはわからなかった。
ただ、皆が口を揃えてそう言う度に、いつしか自分もそう思うようになった。
それから、里の外れの小さな家に住むことになった。
窓から見える景色は、いつも決まって同じ。
舞い散る銀の葉と、監視のために立つ衛兵の背中。
どうして、こうなってしまったのだろうか。
何が、いけなかったのだろうか。
外に出たい。
この里に、わたしの居場所が欲しい。
*
リエルは、震える体を自分で抱き締めていた。
何を思っているのかわからない、ゼヴァルの虚ろな瞳を見つめる。
自分だけが特別じゃないなら、この人は何が特別なのだろう。
「儂はかつて、鈍色山脈という場所で暮らす山ドワーフだった」
バルディンが不意に言った。
「百年以上その山で暮らした。伝統と格式を重んじる、古い集落だった。ある時、仲間と意見が衝突してな」
物憂げに窓を見上げている。
「山を出たドワーフは、二度とその山には戻れんしきたりだ。だが、儂は儂の意志であの山を出た」
強い眼差しで、少女を見据える。
「場所は問題ではない。本当の檻はどこにあるのか、自分の心に聞いてみることだ」
リエルは息を呑んだ。
場所が問題じゃないなら、どこにあるというのだろうか。
聞きたかったのは、こんな話じゃない……!
「……ごめんなさい。お邪魔しました」
リエルはその場を後にした。
外に出ると、差し込んだ日の光に目の奥が痛んだ。
*
日の溜まった石畳の上を、リエルはとぼとぼと辿った。
本来であれば、この道を歩くことすら許されていない。
昨日と今日だけの、特別な日。特別……。
『自分だけが特別だと思わない方がいい』
どうして、そんなことを言われなければならないのだろう。
外の世界のことを聞きたかっただけなのに。
あの人の腕には、何が刻まれているというのか……。
「ここで何をしている」
抑揚の無い声がリエルを呼んだ。
振り返って見上げる。
苔緑色の革鎧と、後ろで編み結んだ白銀色の髪。
切れ長の翠緑色の瞳が、見下ろしていた。
「エスラドール……」
「ハーフエルフとドワーフから話は聞けたのか。昨日、ヴォルンドルが捕らえたと言っていた」
リエルは目を丸くした。
ハーフエルフ?
あの人が……?
「お前の言う、外の世界から来た者たちだろう」
「……外のことは、何も聞けませんでした」
「そうか、徒労だったか」
「ただ、本当の檻はどこにあるのか、自分の心に聞いてみるようにと言われました」
「ふん、知ったような口を利く奴らだ」
「本当の檻とは、どういう意味でしょうか……?」
リエルが縋るような眼差しで、エスラドールを見上げる。
この人なら、きっと答えを知っている。
この人以外に、聞ける人もいない。
いつも冷たいけれど、里の中で唯一まともに口を利いてくれる。
わたしにとって、特別な人。
「自分で考えろ」
「……はい」
わからないから聞いたのに。
いつもそうやって、突き放すような言い方をする。
「用が済んだのなら家に帰れ。私は別件があって行かねばならない。今日これ以上、お前を見てやる時間は取れそうにない」
けれど、この人がいなければ外へは出られない。
同伴と監視を条件に、特例として認められた外出。
時間を割いてもらっているのは、リエルの方だ。
「そうですか……お忙しいのですね」
「昨日、ハーフエルフが里に無理やり侵入したせいで、里の結界に綻びが生まれた。本来であればエルフしか通れない結界の法則を、混血種の奴が乱した」
エスラドールが肩をすくめる。
「余計な仕事を増やしてくれた。お前も結界が直るまでは、しばらく大人しくしていろ」
「承知しました」
別れの挨拶も無いままに、エスラドールは立ち去ってしまった。
リエルはその背中を見送った後、何となく里の入口の方を見上げた。
風が、ふっと通り過ぎる。
――森の奥が震えるように、梢の彼方で鳥たちが一斉に羽ばたいた。
リエルは後ずさった。
仰いだ空は灰色に覆われ、森はしんと静まり返っていた。
心臓が一度だけ、強く打った。




