第3話・エルフの里
少女の姿が木の陰に滑り込んだ。
ゼヴァルは駆け寄るが、もうそこに少女の姿はない。
金色の髪が別の幹の向こうで一瞬だけ揺れ、すぐに消える。
「待ってくれ!」
ゼヴァルが叫んだ。
少女は振り返らなかった。
走っている様子はなかったが、木の陰から木の陰へ、少女は森に溶けるようにすり抜けていく。
まるでこの森そのものが少女を隠しているかのようだった。
背後ではバルディンが荒く息をしている。
やがて、一際大きな樹の幹を回り込んだ瞬間、少女の姿が二人の視界から消えた。
「消えた…?」
ゼヴァルが呟き、二人は足を止めた。
目の前には苔に覆われた古い木々が並んでいるだけで、少女の姿はどこにもなかった。
足音も、気配も、何も残っていない。
追いついたバルディンが膝に手をつき、肩で息をした。
「見失ったか」
「ああ。この辺りで急に姿が消えた」
ゼヴァルは少女が消えた場所を見つめていた。
木々の並びは変わらない。
足元の苔も、頭上の枝葉も、周囲と同じ森の景色が続いている。
だが、正面のある一点だけ、空気が違った。
ゼヴァルは前方へゆっくりと手を伸ばす。
指先が何もない空間に触れた瞬間、微かな抵抗があった。
水面に指を沈めるような感触。
見た目には何も変わらないが、指先の向こう側とこちら側で、空気の密度が違う。
「見えない壁のようなものがある」
バルディンが息を整えながら近づいた。
「わかるのか」
「わからない。だが触れればわかる」
「儂には触れられんが…光属性による結界のようなものかもしれん」
ゼヴァルは指先をさらに押し込んだ。
抵抗はあったが、手首まで沈んだ。
腕が境界の向こう側に通っている。
「ほう」
バルディンが髭を撫でる。
「通れるのか」
「やってみよう」
ゼヴァルが一歩踏み出す。
体が境界に触れると、全身に薄い膜を押し通すような圧がかかった。
しかし、次の一歩を踏み出すと圧が消えた。
「消えたぞ!」
バルディンは目を丸くした。
ゼヴァルが振り返ると、バルディンの姿がまだ向こう側にあった。
境界を挟んで、ゼヴァルからはバルディンが見えるが、バルディンからゼヴァルは見えていなかった。
「俺の声は?」
「聞こえる」
「姿だけが見えないのか…すごいな」
バルディンがゼヴァルの立っていた場所を歩き回るが、何も起きない。
壁もなければ手応えもない。
ただ同じ森が続いているだけだった。
「おい、どこに行った!」
ゼヴァルは境界の内側から手を伸ばした。
ゼヴァルの手がバルディンの眼前に突然現れる。
「異様な光景じゃ…」
バルディンは怪訝な顔でその手を掴んだ。
ゼヴァルが強く引くと、バルディンの全身に薄い膜を押し通すような圧がかかる。
バルディンの体がゆっくりと境界を通り抜け、圧が消えると同時に足をもつれさせながら内側に踏み込んだ。
「蛇に丸呑みされた気分だ」
バルディンが服を片手で払う。
「ここはどこだろうか」
二人は改めて前方に目を向け、森の景色が一変していることに気付く。
木々の幹が白く、枝から垂れる葉は淡い銀色を帯びている。
木漏れ日は柔らかく、地面を覆う草花は見たことのない種類ばかりだった。
空気も澄んでおり、外の森とは明らかに異なる、穏やかで静謐な空間が広がっていた。
「秘境とでも言うべきか…」
バルディンが周囲を見回す。
足元には細い石畳の小道が奥へと続いており、遠くの木々の間に、白い石で造られた建物がいくつか見えた。
「向こうに人里が見えるぞ」
その時、鋭い足音が森の奥から近づいてきた。
複数の足音が、二人を囲むように四方から迫っている。
ゼヴァルとバルディンが武器に手をかけると同時に、木々の間から長い耳を持つ人影が次々と姿を現した。
弓を構えた者が三人。
槍を持った者が二人。
そしてその後ろに、白い長衣を纏った年長のエルフが一人。
「何者だ」
年長のエルフが一歩前に出て、低い声で言い放った。
周囲のエルフの矢と槍の刃先はゼヴァルとバルディンに向けられている。
「争うつもりはない」
バルディンが両手を上げる。
ゼヴァルもそれに倣う。
「俺たちは迷い込んだんだ」
年長のエルフの目が細くなった。
ゼヴァルの耳を見つめ、次にバルディンの姿を見て、僅かに眉を動かした。
「ハーフエルフに、ドワーフ…汚らわしい」
バルディンが両手を上げたままゼヴァルを横目で見た。
ゼヴァルの表情は動かなかった。
年長のエルフが短く何かを告げると、弓を構えた者たちが二人の左右に回り込み、背後を塞いだ。
共通語ではなかったために言葉は聞き取れなかったが、ゼヴァルの目は周囲のエルフの配置を素早く追っていた。
背中の剣槍に手がかかる。
「ゼヴァル」
バルディンの低い声が響く。
「やめておけ。儂らはエルフと争いに来たわけじゃない」
ゼヴァルは一拍置いて、剣槍の柄から手を離した。
「ドワーフにしては懸命な判断だ」
武器と荷物を預けるよう促され、ゼヴァルは剣槍を、バルディンは片手斧と革のポーチを差し出し、背嚢を地面に下ろした。
エルフの一人がそれらを無言で受け取る。
二人を見る目は冷たく、路傍の石でも見るかのように無関心だった。
続いて、別のエルフが木製の手錠を持って二人に近づいた。
白い木を削り出した手錠で、表面に細かな紋様が刻まれている。
手首にそれがかけられた瞬間、二人は体の奥に感じていた魔力の起こりが失われ、何かの流れが断ち切られたような感覚を覚えた。
年長のエルフが冷たく笑う。
「貴様らのアストログマを封じる、エルフ特製の魔導具だ」
バルディンが目を丸くして自分の手錠を見下ろす。
「アストログマを封じる枷とは…大したものだ。ドワーフには無い技術だ」
「貴様らと一緒にするな。連れて行け」
二人はエルフたちに囲まれたまま、石畳の小道を里の方へと歩かされた。
小道の両側に並ぶ白い木々に目を向けていると、やがて水路が現れ、その向こうに白い石造りの建物が見え始めた。
里に近づくにつれ、建物の間から住人たちの姿が覗いた。
大人も子供も一様に長い耳を持ち、美しい顔立ちをしている。
その目が二人の姿に目を向けられると、住人たちの表情に警戒と、見て取れる嫌悪の色が浮かんだ。
「…ここは嫌いだ」
ゼヴァルが呟いた。
バルディンは気にする素振りもなく辺りを見回していた。
「見事なものだ、この石組み。相当な技術だぞ」
エルフの一人が鋭い目を向けたが、バルディンは意に介さなかった。
水路に架かる小さな橋を渡った時、ゼヴァルの目が止まった。
橋の向こう、木々に囲まれた広場の端に、森で見かけた金色の髪の少女が見えた。
少女もまた、ゼヴァルたちを見ていた。
驚きと、それから——何か別の感情が、その大きな瞳に浮かんでいた。
しかし、次の瞬間、年長のエルフに背を押され、ゼヴァルの視界から少女の姿は建物の陰に隠れてしまった。
「入れ」
二人が連れて来られたのは、里の外れにある石造りの小屋だった。
窓は高い位置に小さく一つだけで、扉は外からかんぬきがかかる造りになっている。
中に押し込まれ、背後で扉が閉じた。
重い木の音と共に、かんぬきが落ちる音が響く。
薄暗い室内に、高い窓から細い光が差し込んでいた。
「やれやれ」
バルディンが壁に寄りかかり、腕を組んだ。
「ひとまず殺されはせんようだ」
ゼヴァルは窓の光を見上げていた。
「初めてエルフに出会った」
その目はどこか遠くを見つめていた。
「同じ人を見る目じゃなかった。人間にもエルフにも、俺の居場所はないらしい」
「…居場所は自分で作るものだ」
バルディンが目を閉じたまま言った。
それ以上は何も続けなかった。
ゼヴァルは壁に背をつけて目を閉じた。
そのまま物思いに耽るように、しばらく黙り込んでいた。




