第2話 エルフの少女
村を出てから半刻ほど歩くと、森の入口に着いた。
深い緑の枝葉が頭上を覆い、昼だというのに辺りは薄暗い。
ゼヴァルはフードを外し、疎らに散った枯れ草を踏み締める。
「どうする」
「周囲を散策してみるか」
バルディンが森の縁に沿って歩き出す。
ゼヴァルは半歩遅れてその背を追った。
しばらく進むと、木漏れ日の射す開けた一帯に出た。
白や紫の花が地面に咲き、薬草が青々と生い茂っている。
「ふむ」
バルディンが背嚢を下ろし、顎髭を撫でる。
「店主の息子が薬草を採りに行ったのはこの辺りか」
「ああ。だが見渡す限り、ただの薬草の群生地にしか見えない」
ふと、ゼヴァルはバルディンの足元に目を留めた。
枯れた下草――その中でやけに大きく育った濃い緑色。
「バルディン、足元」
細い蔓が一本、葉の陰へともぐり込んだ。
「動いている」
ゼヴァルが背中の剣槍を抜く。
バルディンも腰の片手斧に手をかけた。
――瞬間、地面が盛り上がった。
触手のような蔓と、人間の倍以上に太い茎が噴き出す。
二人はとっさに横へ跳んだ。
体勢を立て直し、ゼヴァルが魔物を見上げる。
茎の頂で、赤い花が大きく四方に開いた。
(牙……?)
いや、棘だ。
裂けた花弁の内側に、無数の赤い棘。
そこから薄紫色の粘液が垂れ、落ちた地面で草が枯れた。
「マンイーターだ」
バルディンが言うと同時に、地面から蔓が這い出した。
二人の足へとしなりながら伸びる。
バルディンは右手を地面に突いた――革手袋から茶色の光が漏れ出す。
「元凶はこいつだな。粘液には触れるなよ」
地面が持ち上がり、蔓の動きが止まる。
バルディンが斧を振りかぶり、それを一息に断ち切る。
「――毒で動けんくなる」
「了解」
頭上で茎がしなった。
粘液を撒き散らしながら、花弁が落ちてくる。
(退くには、遅い)
ゼヴァルは剣槍を握り直し、左の袖をまくった。
その左腕には、手首から上腕へ結晶が連なる水色の紋様。
その中に刻まれた、鉤爪と牙を思わせる鋭角な意匠。
ゼヴァルが、剣先に左の手のひらを添える。
腕に走った鋭い痛みの奥に微かな熱。
それを全身へと流すように、身体の内側へ感覚を手繰り、巡る魔力に身を委ねる。
――刻印が水色の光を放つ。
「氷の刃」
尖った氷が切っ先に沿って伸び、穂先を包んだ。
迫りくる花弁へ、ゼヴァルは踏み込む。
――剣槍を突き上げる。
緑色の肉に刃が食い込んだ。
白い冷気が舞い、花弁が凍りついた。
「横だ、ゼヴァル!」
ゼヴァルの右から蔓が迫る。
「土巌壁!」
バルディンが地面を叩いた――分厚い土の壁がせり上がる。
蔓が壁にぶつかり、宙を泳ぐ。
(今だ)
ゼヴァルは剣槍を引き抜いた。
壁を右へと回り、魔物の背後へ駆け抜ける。
凍った花弁――その重みで傾いた茎を、薙ぐ。
花弁が落ちる。
氷片が散る。
黒い塵が舞い上がる。
「片付いたな」
バルディンは斧の刃を、麻布で丁寧に拭っていた。
「ああ」
「この魔物の種子を植えられた者は魔力を吸い取られ、衰弱していく。店主の息子が弱った原因は、こいつで間違いあるまい」
「この付近には寄りつかないよう、村人に注意した方が良さそうか」
ゼヴァルは革紐を結び直し、剣槍を背負った。
散らばった氷片を見つめる。
こいつも違った。既に跡形も無い。
魔物は、倒すと塵になり消える。
(もしかしたら、もう……)
息を吐いて、来た方角を振り返る。
「帰って報告しよう」
「うむ。息子の容態も気になる」
バルディンも斧を戻し、背嚢を背負い直す。
二人は来た道を引き返した。
*
しばらく歩いた頃、ゼヴァルが足を止めた。
木々の隙間、その薄暗がりの中に小さな光が揺れている。
「人影が見える」
バルディンは目を細めて同じ方向を見たが、首を横に振った。
「儂には見えんが」
影が少しずつ、森の奥へと遠のいていく。
「俺たちを誘っているのか……」
「店主の忠告を忘れたわけではあるまいな。帰れなくなるぞ」
「……わかってる」
ゼヴァルは影から目を離した。
歩き出そうとしたところで、
『こっちだよ』
と、誰かに呼ばれた。
耳ではない。頭の内側で鳴ったような。
「今の声が聞こえたか」
「声? 何も聞こえんが」
空耳だろうか。
それにしては、はっきりと聞こえた。
『会いにおいで』
また、この声。
「……俺を、呼んでいる」
「儂には何も聞こえん。こんな森の外れで、誰がお前さんを呼ぶんじゃ。怪しいとは思わんか」
バルディンの言い分は正しい。だが……。
『あの娘を、助けてあげて』
声が、止まない。
「誰かが助けを求めている」
だからどうする。誰を、何から。
「魔物かも、しれない」
だから、行かなければならない。
ゼヴァルが一歩前に踏み出す。
バルディンは森の奥とゼヴァルの顔を交互に見、長い息を吐いた。
「どうなっても知らんぞ」
ゼヴァルが返事も無しに、森の中へ入っていく。
バルディンはやれやれと肩をすくめ、それに続いた。
*
木々の間を進むにつれて、森の様子が変わっていった。
幹は太くなり、頭上に広がる枝葉の重なりが厚さを増していく。
地面は厚い苔に覆われ、根が道を塞ぐように這い回っている。
バルディンは、前を行くゼヴァルの背中をただ追っていた。
(今まで、ゼヴァルが前を歩いたことがあったか)
足元を見て歩くのが常だったというのに、今は顔が上を向いたままだ。
十と八つのただの若者の背中。
今は、そう見える。
「こっちだ」
ゼヴァルが枝の間を指差す。
「どっちだ」
「影のいる方だ」
「だからそれはどっちだ」
「こっちだ」
「……もうよい」
しばらく歩いた。
通り過ぎようとした幹に、バルディンが眉をひそめて手を添える。
この幹にはさっき手を当てた。
苔の付き方が同じだ。
裏側へ手を回す。
苔は北側に厚く付く。そう決まっている。
故に乾いているのは南。だとすれば北は左手だ。
今は、おそらく東に向かっている。
(だが……)
隣の幹へ手を移す。
(何故この木は、苔が南に付いている……!)
ゼヴァルが急に足を止めた。
「消えた」
「冗談はよせ」
バルディンも足を止めて背後を振り返る。
見覚えのある景色は一つも無かった。
「帰り道はどっちだ」
「……」
「行きはどっちへ歩いた」
「わからない」
「儂らは見事に迷った、というわけか」
「声は、まだ聞こえる」
「やれやれ、その影とやらを信じて進む方がまだましか」
二人はさらに森の奥へと進んだ。
*
二人がどれだけ歩いたのか、わからなくなった頃。
唐突に木々が開けた。
枝葉の切れ間に、澄んだ水面が覗いている。
険しくなっていたバルディンの口元が緩む。
「水だ」
のしのしと走り出す。
「休憩だ!」
「待て」
ゼヴァルが手で制した。
小さな白い花が咲く水辺に、小柄な人影が屈んでいる。
不意に差し込んだ陽の光が、その人影を照らした。
華奢な背中。腰に届く長い金色の髪。
髪の左右を後ろで束ねた三つ編み。
淡い緑と生成りのゆるりとした長衣。
そこから覗く白い肌。
――長く、尖った耳。
「エルフ……?」
少女が二人に顔を向けた。
大きな翡翠色の瞳と、ゼヴァルの目が合う。
――少女は弾かれたように立ち上がり、泉を回って森の奥へと駆け出した。
「追うぞ」
ゼヴァルが駆け出した。
待て、とバルディンが止めたが、その足は止まらない。
あの声が言っていた者なのか。
それとも声そのものだったのか。
魔物は、どこにいるのか。
答えは貰えない。
少女の金色の髪が、木々の間で揺れながら遠ざかっていく。




