第39話 人の境界
それから更に数時間後。徐々に日は傾き出し、夕日がトラーマの町を橙色に染めていく。
炎の赤はすっかり消え、燻る残り火から立つ細い煙だけが、凪いだ空へ真っ直ぐ昇っていた。
怪我人の列はいつしか短くなり、傭兵たちの足取りからも張り詰めていたものが薄れている。
天幕の下、西陽が射し込む麻布の上で、ゼヴァルはまだ眠っていた。
リエルの治療の甲斐あって呼吸は安定し、深く静かな寝息を立てている。
その傍らで、リエルはゼヴァルの寝顔を見つめていた。
ふと、力無く投げ出されたゼヴァルの腕が、ぴくりと動いた。何かを掴もうとするように宙を掠めて、落ちる。
閉じた瞼が、微かに震えている。深い眠りの底で、ゼヴァルは幼い頃のある夢を見ていた。
*
柔らかな陽が射している。
狭い中庭の隅に、小さな花壇。名も知らない花がいくつか、控えめに咲いている。
その縁に誰かが座っている。自分と同じくらいの背丈の、黒い瞳のあどけない少女。
髪も服もぼろぼろで、抱えた膝もそれを抱く腕も、皆傷だらけだった。
その右腕は、付いた傷のせいか刻印の模様がよく見えなかった。
「この花は、待雪草って言うんだって」
少女の声は遠くから届いたように、くぐもっていた。
「神父様が教えてくれた。冬の終わりに咲くから、そう呼ぶんだって」
その花は白く、俯いていた。少女によく似ている。
「……早く、春が来てほしい」
そう言った自分の声は、他人のもののように聞こえた。少女の傷だらけの頬に、微かな笑みが浮かぶ。
「わたしも」
「……でも、春が来るとこの花は枯れてしまうのかな」
「うーん、そうかも。じゃあ、春には来てほしくないね」
少女がくすりと笑った。金色の髪が揺れて、その間から少し尖った耳の先が覗いた。
「まあ、どっちでも関係無いか」
急に少女の声から温度が消えた。ゆっくりと、立ち上がる。
「どこへ?」
少女は振り返らないまま、白い光の方へ歩いていく。
「待って」
追いかけようとするが、体が動かない。
——置いていかないで。
伸ばした手は、何も掴めなかった。
*
「——ゼヴァルさん?」
ゼヴァルが瞼を開けると、滲んだ視界に金色が揺れていた。
宙を掻いていた手を、リエルの両手がそっと包んでいる。翡翠色の、丸くて大きな瞳が心配そうに揺れている。
「よかった……気がつかれたんですね」
はっとしたようにリエルは続けた。
「……涙が」
言われて初めて気づいて、ゼヴァルはリエルの手から自分の手を引き抜いた。
目元を拭い、手に微かに付いた水滴をぼんやりと眺める。
何故濡れているのか、この胸に残る感情は何なのか、ゼヴァルにはわからなかった。
ただ、一つだけ確かなことは、夢の中で見たあの少女は、自分と同じだったということ。
「大丈夫ですか……?」
リエルがゼヴァルの顔を覗き込む。ゼヴァルは顔を横に向けた。
「……何でもない」
リエルは寂しそうに、ゼヴァルを見つめることしかできなかった。
静まり返った空気に、ドカドカという足音。天幕の布が勢い良く撥ね上がる。
「おお! 目が覚めたか!」
エドアルドが快活な笑みを浮かべながら、大股で麻布の脇まで歩み寄る。
「君の仲間が心配していたぞ」
「お前は?」
「これは心外だ。君も僕のことを知らないのか」
エドアルドが上着に手をかける。しかし、脱ぐ手前で止まった。
「いや、自己紹介は後にしよう。起きがけで悪いが付き合ってくれるかな」
ゼヴァル、そしてリエルに目をやり、エドアルドがニッと笑う。
「この町で起きた事件について、話がある。それと、君たちの珍しいアストログマについてもね」
ゼヴァルとリエルは顔を見合わせる。ゼヴァルは傍らに横たえられていた剣槍へ、手を伸ばした。
「ゼヴァルさん、まだ——」
リエルが止める間もなく、ゼヴァルは剣槍を支えに立ち上がった。
「わかった」
「グランデ! では、付いてきたまえ」
エドアルドが颯爽と立ち去っていく。ゼヴァルはリエルに視線を落とした。
「行こう。俺なら大丈夫だ」
リエルはただ、頷くことしかできなかった。
*
エドアルドに連れられて、ゼヴァルとリエルは広場の一角にある崩れた石壁の近くへ案内された。
壁の近くには、見慣れた二人と知らない人物が一人、待っていた。
「来たか」
手頃な石に腰を下ろしていたバルディンが、ゼヴァルたちを見て立ち上がる。
革袋の水筒を腰の革帯に戻し、髭に付いた雫を手の甲で拭う。
その隣で、カイは地面に足を投げ出して座り込んでいた。軽く手を振り笑っているが、表情には疲れが滲んでいる。
そして、二人の傍らで腕を組んで立っている、フードを目深に被った長身の人影。
エドアルドと同じ色の服装に身を包んでいるが、腰の後ろの裾からは、黒褐色のふさりとした尻尾が覗いていた。
エドアルドがその長身の男に向かって手を振った。
「やあ、待たせたね!」
「御足労ありがとうございます、隊長」
そう言って男がフードを下ろす。頭上に伏せていた三角の耳が、ぴんと立ち上がった。
顔は黒褐色から褐色へ流れる短い被毛に覆われており、その姿は人ではなく、犬のようだった。
深みを帯びた濃い茶色の瞳が、ゼヴァルとリエルに向けられる。
「初めまして、エルフの御仁方。私はセンノ」
センノと名乗った男は畏まって、頭を深々と下げた。
「見ての通り、獣人です。種はシェパードというイヌ科となります」
「あ、こちらこそ、初めまして。わたしはリエルと申します」
「ゼヴァルだ」
ゼヴァルは短く告げるのみ。リエルは反射的に、丁寧に頭を下げ返した。それから、戸惑いがちに尋ねる。
「あの、すいません。獣人、というのは、どういう意味なのでしょうか」
センノの動きが止まった。顔を上げ、窺うようにリエルを見つめる。
「まだお若いエルフの御仁とお見受けしました。獣人とは、人間やあなた方エルフと同じ、人の区分の総称です」
淡々と、センノは続けた。
「その起源は神話の時代まで遡ると聞かされておりますが、詳しいところはわかりません。ただ、我々は人間に獣の血が混ざって生まれた、人の出来損ないのような存在です」
言い終えたセンノの表情は無表情でありながら、その静けさに何かが息を潜めているようだった。
「人の、出来損ない……」
リエルは胸に引っかかったその言葉を、繰り返した。里での生活が、少しだけ目に浮かんだ。
「出来損なっていない人とは、何なのでしょうか」
センノの瞳が見開かれた。澄んだリエルの声を受けて、耳がピクピクと小刻みに震えた。
「……ふ」
結ばれていたセンノの口元が、不意に緩んだ。低く、短い笑いが零れた後、垂れていた尻尾が左右に振れた。
「ふふふ。ははははは! 失礼、予想だにしない初めての反応だったので、つい笑ってしまいました」
そう言ってエドアルドに振り向く。
「隊長、やはりこの御仁は特別なお方のようです。光の女神様に選ばれただけのことはあります」
「はーはっはっはっ! 君のお眼鏡に適うとは、まったく最高だな!」
エドアルドは満足そうに笑って、上着を脱ぎ捨てた。
「では、遅ればせながら僕の自己紹介もさせてくれたまえ!」
両の拳を胸の高さまで掲げ、肘を折り曲げる。左右の腕に力こぶがぐぐっと盛り上がった。
「僕はエドアルド。見たまえ、この上腕二頭筋の——」
「ゼヴァル殿も、先程は失礼致しました」
エドアルドに目もくれず、センノはゼヴァルに振り向いた。
リエルは苦笑しながら、バルディンとカイの元へ行ってしまった。
「何のことだ」
ゼヴァルが尋ねる。センノの口元から笑みが引いた。
「重ねて失礼致しました。ですが、貴殿はハーフエルフとお見受けします」
センノの視線がゼヴァルの耳に移り、青い瞳と重なった。
「人の出来損ない、とは私を卑下した比喩のようなものです。試すような真似をして申し訳ありませんでした。お気を悪くしたのなら、どうかお許しください」
ゼヴァルはああ、と合点がいったように呟いた。
「構わない。気にしていない」
ゼヴァルの声は乾いていた。それだけ言って、バルディンたちの方へと行ってしまった。
だが、夢で見た少女の幼気な瞳、自分と同じ耳の輪郭、そして少女の背中が、ゼヴァルの心に刺さったままだった。
センノはため息をつき、エドアルドに目をやる。
「三角筋も躍動しているぞ!」
もう一つため息が、吐き出された。




