第38話 ヴェルデ商会の三人
トラーマの町を包んでいた炎は、紅火鉱を失ったことで徐々に鎮火され始めていた。
無敵かに思われた炎の魔物も、再生するための寄る辺を無くしたことで一度倒せば二度と起き上がることは無くなった。
それでも、テレーノ商会の傭兵と住民たちの表情に笑顔が戻るにはまだ早い。
アイウートとリエルは、広場を囲む建物の壁に沿って張られた天幕の下で、傷ついた人々の救護に追われていた。
「だ、大丈夫です! まだ運べます!」
両腕に木箱を抱えたアイウートが、箱の脇から顔を出して前を覗く。
「本当かよ。落とすなよ?」
傭兵の男が三つ目の箱を、抱えられた山の上へと乗せる。アイウートの膝が沈む。
「……っ。は、はい!」
背筋を伸ばして持ち直し、よろよろと一歩を踏み出す。
天幕の縁を潜ったところで、アイウートは膝をついて箱を下ろした。
「どうぞ、新しい布です」
蓋を開けて、丸めた束を引っ張り出す。女性の傭兵が振り返り、軽い会釈とともにそれを受け取った。
「ありがとう。これを裂いて包帯にしましょう」
指示が飛び、若い傭兵が布を持っていく。アイウートは箱が空になったのを見ると、重ねて抱え上げた。
次の仕事に向かおうとして、ふと天幕の奥へと目をやる。布の仕切りの隙間から、金色の光が漏れていた。
「じっとしていてくださいね」
リエルが真剣な表情で、幼い少女の脛に右手をかざしている。
刻印の花弁の意匠が光を放つと、赤く爛れた皮膚の上を光が包んでいった。
やがて光が引くと、皮膚は薄い赤みだけを残して滑らかになっていた。
少女が恐る恐る脛に触れる。
「痛く、ない……」
「よかった」
リエルはほっと胸を撫で下ろした。母親は何度も頭を下げ、少女を抱き上げて出ていった。
「リエルさん」
急に呼ばれて、リエルの肩がびくりと揺れた。
「あの、水を汲んできますが……何か、いりますか」
アイウートが尋ねると、リエルは振り返りながら控えめに笑った。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「そ、そうですか」
アイウートはその場から立ち去れなかった。リエルの笑顔が、取り繕ったものに見えた。
あれから、リエルはずっと気を張っている。ふとした拍子に、視線が何度も路地の方へ流れている。
誰も居らず、誰も来ないことを確認する度に、ため息をついている。
「……あまり無理は、しないでくださいね」
それしか言えず、アイウートは頭を下げて踵を返した。リエルは小さくはい、と返事をするだけだった。
木箱を抱え、アイウートはとぼとぼと天幕の外に出た。周囲が何やら騒がしい。
「重症者だ! 誰か手を貸してくれ!」
聞いた途端に、アイウートは箱をその場に置いて声のした方へ走った。
「こっちだこっち!」
呼んでいる傭兵の隣に並び、燻った火の残る路地の先を見つめる。
血で汚れ、所々破れた灰色の装束に身を包んだ女性が、こちらに歩いてきていた。
キャラメル色の髪を高い位置で結んだポニーテールが、荒く揺れている。
その肩に支えられた長身の青年は、ぐったりと項垂れて銀灰色の髪を真下に垂らしていた。
「ゼ、ゼヴァルさん!?」
アイウートが慌てて女性に駆け寄り、ゼヴァルの腕を肩に回す。
「はあ、はあ……あんた、テレーノの傭兵ね。怪我人を運ぶ場所はどこなの」
明るい赤の大きな瞳で、女性がアイウートを見やる。アイウートの腰が少し引けた。
「あ、えっと、すいません、こっちです」
「何で謝ってんの?」
「すいません……」
赤目の女性はため息混じりにゼヴァルを担ぎ直した。
近くの傭兵の手も借りた後、アイウートと赤目の女性の二人でゼヴァルを天幕の下へと運び込んだ。
ゼヴァルの足は地面を擦るばかりで、まるで力が入っていない。
「ここにお願いします。せーので」
アイウートの声に合わせて、平らに敷かれた麻布の上にゼヴァルを横たえる。
それと同時に布の仕切りを払って出てきたリエルが、その様子に目を留め、息を呑んだ。
「ゼヴァルさん!!」
弾かれたようにリエルはゼヴァルの傍らへ駆け寄り、膝をついた。
汚れた前髪を払い、固く閉じられた瞼、口の端に薄く滲んだ血の跡へ、視線を滑らせる。
「死んじゃいないわ。気を失ってるだけ」
赤目の女性が腕を組んでゼヴァルを見下ろす。
ゼヴァルの乾いた唇の間からは、浅くだが呼吸が漏れていた。
リエルの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。右手をゼヴァルへとかざす。
「光のアストログマ……」
リエルの右手から零れた金色の光に、赤目の女性の目が丸くなった。
その隣でアイウートは赤目の女性を——その胸元にあしらわれた、新緑地に銀色の鮭の刺繍にちらりと目をやった。
「何見てんのよ」
赤目の女性がじとっとした目でアイウートを見つめる。
アイウートは眼鏡を直しながら、慌てて目を逸らした。
「あ、す、すいません。その紋章、ヴェルデ商会の方なのかな、と思い、つい……」
赤目の女性はああ、と合点がいったように頷いた。
「そうよ。あたしはカリーナ。あんたたちテレーノ商会の取引の視察に寄越された、ヴェルデ商会の傭兵よ」
カリーナと名乗った女性は、そう言って肩をすくめた。
「まさかトラーマがこんなことになってるだなんて、想定外だったけどね」
それからゼヴァルへと視線を落とす。
「あんた、こいつの知り合い?」
「は、はい。この方とはソーリアで知り合いまして、成り行きで一緒にこの町に」
「ふうん。じゃあこのエルフの子とも知り合いなわけ?」
カリーナの視線がリエルに移った。その目は疑念に満ちていた。
「ハーフエルフに、エルフとも知り合いだなんて、あんた何者なの? そもそもこいつらは何?」
捲し立てるように質問を重ねるカリーナに、アイウートがたじろぐ。
「え、えーっと……」
アイウートが言葉に詰まっていると、ピリピリとした空気を吹き飛ばす高らかな笑い声が天幕の外から割り込んできた。
「はーはっはっはっ!」
険しかったカリーナの表情が、あからさまにうんざりした色へと変わる。
「げっ、この笑い声は……」
布を撥ね上げて、エドアルドが中へと入ってくる。カリーナの姿を認めると、白い歯を見せてニッと笑った。
「おお、カリーナくん! 無事だったか!」
「ああもう暑苦しい。もうちょっと声の音量下げてもらえます?」
「いやはや、今日も手厳しいな!」
楽しそうにエドアルドは笑う。それから、横たわるゼヴァルとその傍らで治療に励むリエルに目を向けた。
「ふむ」
笑みがすっと引いていく。
「珍しい顔ぶれと、アストログマだ」
ゼヴァルの体を包む金色の光と、リエルの右腕の刻印をエドアルドの青い瞳が静かに追う。
その隣でアイウートは、信じられないと言うように目を大きく見開いていた。
「三叉の槍に、鱗の意匠の刻印……まさか、トレミアの守護神、エドアルドさんですか……!?」
エドアルドの顔に快活な笑みが戻った。
「おお、君は僕のことを知っているのか! グランデ! この出会いを祝して、共に腕立て伏せでも——」
「隊長、ちょっと黙っててもらえます?」
カリーナの鋭い一言に、エドアルドは参ったと笑い、アイウートは呆然と言葉を失った。
「……っ、げほっ」
空気を一変するように、ゼヴァルの喉から枯れた咳が漏れた。
「ゼヴァルさん!」
リエルとアイウートが同時に声を上げた。リエルが身を乗り出してゼヴァルの顔を覗き込む。
「よかった……具合はどうですか」
「……ここは」
掠れた声だった。焦点の合わない青い瞳が天幕の布を、それからリエルの顔を滑っていく。
「臨時の救護テントです。今、治療をしているので、そのまま安静にしていてくださいね」
リエルの手がゼヴァルの肩をそっと押し留める。ゼヴァルは薄く目を開けたまま、浅く息を継いだ。
「……そうか」
ゼヴァルが瞼を閉じる。
「俺は、負けたのか……」
あまりに小さな声で、その言葉は誰の耳にも届かなかった。それきり、ゼヴァルはまた意識の底へ沈んだ。
リエルは治療に集中している。アイウートは水を汲みに行くと言って、天幕の外へと駆けていった。
エドアルドとカリーナは黙って二人の様子を見守っている。
ちょうどその時だった。遠く、町の外れの方から、長く尾を引く獣の声が響いた。
「む、この遠吠えは」
エドアルドが顔を上げ、その声に耳を澄ませる。口元がゆっくりと緩んだ。
「良い報せがあったようだ」




