第37話 熱は引いて
ガシャンと音を立てて、鎖が弧を描いて床に垂れた。ゆっくりと黒い塊が傾き、崩れるように地面に落ちていく。
脈打っていた岩の表面から、明滅が引いていく。奥の方に残っていた輝きは、やがて絞られるように細くなり、消えた。
カイは斧を握ったまま、動けなかった。炎が弾ける音と自分の息遣いが、妙に冴え渡って聞こえる。
「——やったな」
後ろから、バルディンの息が漏れた音が聞こえた。はっと我に返り、カイは振り返る。
苦悶の表情を浮かべながらも、バルディンは確かに笑っていた。カイは唇をきゅっと噛み締めた。
「うん」
ゴーグルを上げて、縁に指を掛けたまま炉へ向き直る。
炎の丈が少しずつ縮んでいる。天井を舐めていた先端が、炉の口の高さまで落ちていく。
赤が薄れ、橙色になり、根元から短くなっていく。周囲を包んでいた火が、一つ、また一つと消えていく。
やがて最後に残った小さな炎が、ふっと途切れた。後には、燻る煙だけが炉の口から細く立ち上っていた。
「消えた……」
カイの膝から力が抜けた。斧の刃が床に落ち、乾いた音を立てる。
それと同時に、頭上の土がぱらぱらと乾いた粒を落とした。
「おっちゃん!」
カイが慌ててバルディンに駆け寄る。
バルディンは土穴に添えた右手はそのままに、顎だけを上げた。
刻印の光は、今にも消え入りそうだった。
「……大丈夫だ」
「肩、貸すよ」
バルディンの脇に潜り込み、腕を自分の首へ回す。持ち上げようとして、カイの膝が少し折れた。
「重っ」
「……しっかりせい。あと、斧を忘れるなよ」
はいはい、と返事をして、カイは空いた手で斧を拾った。熱を帯びて、柄が前より熱くなっていた。
バルディンを支えながら、土のトンネルを進む。
炉の火は落ちたが、工房の中は依然燃えていた。壁際に積まれていた木炭の山が、じりじりと音を立てている。
トンネルを抜ける間際、カイは炉の方を横目で見やった。
地面に転がった黒い塊は、燻った炎の中で少しずつ朽ち果てようとしていた。
カイは前へと向き直る。バルディンは、ずっと前を見ていた。
やがて、土のトンネルの向こうに通りが開けた。
背後で、トンネルが崩れる音がする。バルディンの右腕は既に光を失っていた。
「はああああああ」
大きなため息とともに、カイが地面にへたり込む。体重を預けていたバルディンも、そのまま隣に腰を下ろした。
斧が石畳を打って、からりと鳴る。二人共、しばらく何も言わなかった。
「疲れたあああああ」
事切れたように、カイは仰向けに倒れ込んだ。
腕で顔を覆い、ゴーグルが額の上でずれる。胸は、しきりに上下していた。
バルディンは膝を立て、その上に腕を預けて通りの先を見つめる。
鍛冶通りを埋めていた炎の揺らぎは、本来の向きを思い出したように風に沿って揺れていた。その勢いは、明らかに痩せている。
炎の中から這い出しかけていた魔物は輪郭が縁から崩れ、崩れたものが塵になって消えた。
通りを蠢く魔物は健在だが、もうこれ以上増えることは無いようだった。
空を覆っていた赤い炎と黒い煙が薄れていく。その切れ間に、午後の日差しが薄っすらと覗いた。
「お腹空いた」
気の抜けた声に、バルディンは髭の奥で小さく笑った。
「確かに、昼飯を食う暇も無かったな」
「もう動けない」
バルディンは鼻を鳴らし、腰の革ポーチを探った。
紐で口を縛った小袋を引っ張り出して開くと、煎った木の実が転がり出た。
炎で少し焦げていたが、適当に掴んでカイの口の上に手を持っていく。
「口を開けろ」
「え」
カイが腕をどけて口を開けた瞬間、木の実が顔の上に落ちてきた。
「うわっ、鼻に入った!」
カイはじたばたしながら、頬に転がった実を拾って口へ放り込んだ。乾いた音が口の中で鳴る。
「腹の足しにもなんないや……でも、美味いね」
「良い塩を振ってあるからな」
そう言ってバルディンも一掴み、自分の口へ放り込んだ。
ぼりぼりと、二人分の小気味良い音が静かに響いた。
*
その頃、エドアルドと猫背の男の攻防は苛烈を極めていた。
黄橙色の閃光が水面で爆ぜる。三叉の槍の穂先がそれをすくい、渦を巻いた水が爆圧を巻き取って弾け飛ぶ。
飛沫と火花が同時に散り、白い蒸気が二人の間を流れた。
「——む」
エドアルドの青い瞳が、眼前の敵から逸れた。
燃え盛っていた町の炎の勢いが、弱まっていることに気づく。
「どうやら、彼らは成し遂げたようだ」
「どこ見てんだぁ?」
切っ先が蒸気を裂き、猫背の男の剣がエドアルドの喉元へ突き抜ける。
「さっさと死ねぇ!」
ギィンという音とともに、刃が止まった。三叉の槍の穂先の股が、剣身を挟み込んでいた。
「はーはっはっはっ! 甘い甘い」
蒸気の向こうで、白い歯が覗く。エドアルドの右腕の刻印が青く光を放った。
「水撃噴流」
猫背の男の足元で、水面が急速に凹んだ。次の瞬間、凝縮された水が柱となって勢い良く噴き上がった。
真下から撃ち抜かれ、男の体が宙へ跳ね上がり、吹き飛ぶ。
「が——」
水面を二度、三度と跳ね、崩れた壁に叩きつけられる。石屑が降り、飛沫が上がった。
男はエドアルドから数十メートル離れた場所まで、吹き飛ばされていた。
手からすり抜けた剣が、遥か手前の水面に沈んでいる。
「くそが……」
男の右腕の刻印が、眩い程の光を放った。エドアルドが眉を上げる。
「ほう、まだ立てるとは。そこまで筋量は無いようだが、持久力のあるボディのようだね」
槍を担ぎ直し、ざぶざぶと水を蹴りながら悠然と男へ歩いていく。
落ち窪んだ男の瞳孔が、怒りに震えてカッと開かれた。
「本気で殺してやるよぉ!」
叫んだ刹那、ちりん、と鈴の音がどこからか鳴った。
「——シニスさん」
振り上げた右手が、宙で行き場を失う。シニスと呼ばれた猫背の男の目が、ぎょろりと物陰へ滑った。
「潮時です。そろそろ引きますよ」
「まだ全員殺してねぇ」
「なら僕がシニスさんを殺しましょうか?」
恐ろしく冷たい声に、シニスの右腕の刻印の発光が止まった。
エドアルドの足も止まる。ただならぬ様子と気配に、シニスが見つめた物陰を見やる。
水はちょうど物陰の手前で途切れていたが、そこに誰かがいるのは確かだと、エドアルドは悟っていた。
「……くそが」
振り上げていたシニスの手がだらりと落ちた。それから、エドアルドを恨めしそうに睨みつける。
「次会った時は、必ず殺す」
黄橙色の光とともに水面が膨れ上がる——立て続けに起きた爆風が水を吹き飛ばし、大量の蒸気が視界を白く塗り潰した。
やがて蒸気が晴れた先には、シニスの姿はもう無かった。物陰にも、誰の気配も残っていない。
水に沈んだままの剣が、足元で光を弾いていた。
「……はーはっはっはっ!」
高らかに笑いながら、エドアルドは槍の石突きで水面を軽く突いた。
「まったく、トラーマの町は最高だな」
それから、シニスが残した剣へと向かい、拾い上げる。柄を握り、しばらくその刃を眺める。
見たことの無い装飾。あるはずと思っていた商会の模様が、どこにも無かった。
笑いが途切れ、青い目が僅かに鋭くなる。
「まだまだ忙しくなりそうだ」
水面に浮いた炭の欠片が、ゆっくりと水に流れていく。
エドアルドは槍を背中に戻し、住民たちの方へと踵を返した。
炎は、まだ燃えていた。だが、通りに満ちた水は確実に火を消火し始めていた。
事態は最悪ではない。水の獣の体が波を打ち、光を受けて淡く輝いていた。




