第36話 消えない炎②
足元の石畳が乾き、踏み込んだ靴底がじわりと熱を返すようになった。
道の両側の工房から噴き出した炎が、通りの奥へと整然と靡く。
屋根の陶瓦が弾け、崩れた梁が路上に転がり、景色の全てが赤く燃える。
「熱っ……!」
カイが腕で顔を庇う。額を伝った汗が熱風に煽られ、頬へと流れ首筋へと落ちていく。
「火元は近いか」
バルディンが荒い息の合間に尋ねた。流れる汗は髭の中へ消えた。
「もう少し」
炎を見上げてカイは答える。視界の先では、崩れた壁が道を塞いでいた。
足を止めずに脇の路地へ折れ、バルディンがそれに並ぶ。
路地は狭く、炎と瓦礫が道の大半を覆っていた。半身になってすり抜けた先も、同じだった。
何度目かの道を曲がったところで、二人は足を止めた。
「げっ」
カイがげんなりして肩を落とす。崩れた工房の瓦礫から、魔物が這い出してきていた。
バルディンが辺りを見回す。
「相手をする暇は無い。向かう方角はどっちだ」
「あっち」
カイの指が魔物の群れの向こうを差した。
バルディンはそれを目で追い、近くの傾いた工房の壁へと視線を流す。
「よし、一気に抜けるぞ」
「ど、どうやって?」
「儂に続け」
尋ね返す暇も無く、バルディンが前へと駆け出した。魔物が首を傾げ、両手を広げて二人へと迫る。
「魔物、来てるけど!?」
カイが慌てた様子でバルディンに目をやる。
バルディンは斧を腰から抜くと、駆け抜けざまに工房の柱へ叩き込んだ。
乾いた音が響く。炭になった木が裂け、支えを失った壁がゆっくりと傾いていく。
カイと魔物が顔を上げた。
「走れ!」
バルディンの怒号に気圧されて、カイの足が速くなる。
石と瓦がなだれ込む。土煙と火の粉が舞い上がり、通りとともに魔物を吞み込んだ。
瓦礫の山の底で、くぐもった音が鳴る。石が一つ、ころりと転がり落ちた。
「行くぞ」
バルディンは振り返らなかった。斧を腰へ戻し、前へと走り出す。
「やるならやるって言ってくれよ……」
カイは瓦礫を一度だけ振り返り、慌ててその背中を追った。
*
炎が揺れる向きとは逆の方向。通りの奥へ、奥へと二人は進んだ。
炎の傾きは次第に大きく、急になり、火元が近くなっているのだとカイは悟った。
そして、二人の足が止まった。
「あそこだ」
鍛冶通りの突き当たりに建つ、一軒の工房を指差す。
他と同じように焼けていたが、そこから上がる炎だけはどこへも靡いていなかった。ただ、真っ直ぐ上へと伸びている。
バルディンが髭を撫でた。
「読みは当たりかもしれんな」
通りを抜け、工房の前へと向かう。戸口は焼け落ち、ぽっかりと空いた四角い穴だけが残っていた。
中から熱が噴き出してくる。その奥に、赤く燃え滾る炉が微かに見えた。
「凄い熱だ、これじゃあ入れない……」
呟いて、背中の装置を下ろしながらカイは膝に両手をついた。
ここまで来たものの、体力は限界に近かった。
喉の奥が焼け、汗はもはや出ていない。視界の縁がゆらゆらと歪んで見える。
「儂のアストログマで、なんとかする」
バルディンが戸口の前へ歩み出て、手のひらを地面に押し当てた。
「おっちゃん、アストログマ使って大丈夫かよ」
バルディンは答えず、右腕の刻印が茶色い光を放った。
石畳が割れて下から土が盛り上がり、寄り集まりながら硬さを増していく。表面が締まり、色が濃くなる。
やがて、土は分厚いトンネルのような形となり、二人の進路を工房の奥まで切り拓いた。
「入るぞ」
心配そうな表情のカイの背を押し、土の下へ押し込む。
土の内側は暗く、狭かった。カイの肩とバルディンの肩がぶつかる。
トンネルに手を添えるバルディンの右腕の刻印の光は、弱々しく薄れかけていた。
「本当に、大丈夫——」
「くどい。お前さんは、この火を何とかすることだけ考えておれ」
ぴしゃりと言って、バルディンは崩れかけた土を背中で持ち上げた。
土の外殻の焼ける音が、頭上で鳴り続ける。表面が赤く焼け、内側の空気が膨れ上がっていく。
カイの足がもつれかけたところを、バルディンの手が襟を掴んで引き上げた。その手は、小刻みに震えていた。
やがて、熱と光が途切れた。燃え盛る工房の中、炉の前に、二人は辿り着いた。
「……やっぱり、紅火鉱だ」
石積みの大きな炉から噴き上がる赤い炎。
その前に据えられた、巨大な大釜と見紛う程の大きさの赤黒い岩。
「どこかに魔力の供給源が——」
カイの言葉が途切れた。岩の陰、炉の脚に黒い塊がもたれかかっていた。
鉄の鎖のようなもので岩に縛り付けられたそれは、炭のように焼き焦げ、形が崩れかけていた。
だが、僅かに残っていた塊の上部には、頭蓋骨と、眼窩だったであろう二つの穴が残されていた。
「——ひっ」
カイが後ずさる。おそらくそれは、人だった。
胸から下は原型を失い、紅火鉱と溶け合うように黒く固まっていた。
だが、右腕だったであろう個所からは、まだ光が漏れていた。
岩が脈打ち、光を吸い込んで赤く明滅する。まるで、まだ呼吸をしているように。
「一体、誰がこんな惨いことを……」
バルディンが顔を歪め、目で黒い塊をなぞる。
肩の張り、骨の太さ。焼け縮んでなお、大男のものだと知れた。傍らには、ひび割れた酒瓶と剣が転がっている。
一瞬、悪い予感が脳裏をよぎったが、今はそれどころではない、とカイに振り返った。
「小僧」
カイの表情は恐怖でくしゃくしゃになっていた。
「お前さんが見るべきは、紅火鉱だ」
バルディンの声は低かった。カイの肩が跳ねたが、目の前の光景に茫然自失のまま立ち尽くしている。
「小僧——」
もう一度呼んだところで、バルディンの膝が折れた。工房に入る前から、既に身体は限界を超えていた。
遠のきそうになる意識をぐっと堪え、バルディンはカイを見上げる。
「任せろと言ったのなら、最後までやり遂げろ」
カイの喉が鳴った。黒い塊から目を引き剥がし、バルディンへと視線を落とす。
「でも、どうやって……」
「儂の斧を使え。あの鎖を断ち切って、紅火鉱からあれを引き離せ」
掠れた声でそう言って、バルディンは斧をカイに差し出した。カイは黙ったまま頷き、それを受け取る。
「重いね……」
へへっと笑ってみせると、バルディンは落とすなよとぶっきらぼうに返した。
斧を握り締め、炉の前に立ち、紅火鉱と向き合う。
赤く焼けた鎖目掛けて、カイは斧を振り被った。だが、炉の熱風が壁のように立ちはだかり、足が前に進まない。
振りかぶった腕はそのまま止まり、やがて下がった。
——何でそんなに、託してくれるんだよ。
心の中で問いかける。父の背中、師匠の笑い声、ただ黙って話を聞いてくれた、老ドワーフの優しい眼差し。
カイは斧を置き、ゴーグルをかけた。腰の革袋の中を探り、青霞鉱の結晶を握り込む。
右腕の刻印が赤く光ると、魔力を帯びた青霞鉱は淡く輝き、冷気を放った。
それを腰のベルトの隙間へ押し込み、残った破片をハーネスの胸帯の下へ差し込む。
火照った体に冷たい感覚が染みていき、焼けていた肺の奥に初めて空気が届いた。
斧を握り直し、バルディンへ振り返る。バルディンの口が微かに動いた。
『自分を信じろ』
声は聞こえなかったが、そう言っているとカイは思った。
炉へ踏み込み、斧を振り上げる。力一杯、振り下ろす。
刃が、鎖に食い込んだ。胸帯の下で、結晶が一つ砕けた。熱が皮膚に戻ってくる。
『お前の作る物は、まだまだ詰めが甘い』
父の言葉が耳の奥で響く。もう一度、斧を振り上げ、鎖に叩きつける。鎖は、切れない。
腕で頬の汗を拭う。もう一度、斧を振り上げる。
揺らめく炉の炎に、憧れた父の背中と、もう一つの大きな背中が浮かぶ。
『お前はいつか、儂を超える職人になれ』
いつか言われた、師匠の言葉。
振り下ろした刃が、鎖を断ち切った。




