第34話 水の鮭
一方その頃、鍛冶通りのバルディンとカイは謎の男の出現により、絶体絶命の危機に陥っていた。
「よく頑張ったから、まずはお前から殺してやるよぉ」
刻印の発光とともに、猫背の男がバルディンに右手をかざす。
「大爆発」
黄橙色の光がバルディンの眼前で膨れ上がり、弾けた——その刹那、突如バルディンの横からうねる水流が爆発の膨張を呑み込んだ。
爆ぜるはずだった熱は水の中で行き場を失い、けたたましい音を立てて水蒸気へと変わっていく。
「はーはっはっはっ!」
揺らめく白い蒸気の向こうから、高らかな笑い声とともに一人の長身の男が歩いてくる。
「視察と聞いて来てみれば、町は火の海、民は苦しみ、挙句の果てには見慣れぬ悪意」
背中に背負った三叉の大きな槍、小麦色に焼けた肌、茶色の短髪、太い眉、力強い青の瞳。
そして灰色の装いの胸にあしらわれた、新緑地に銀色の鮭を縫った紋章。
「ここまで歓迎してもらえるとは、いやはやまったく……グランデ! 最高だよ、トラーマの町!!」
バルディンと猫背の男の間で立ち止まり、茶髪の男が白い歯を見せてにかっと笑った。
猫背の男が気怠げに首を傾げる。
「なんだよ、邪魔が入ったなぁ。誰だお前?」
「心外だ。このエドアルドの名が耳に届いていないとは」
言うや否や、エドアルドと名乗った男は上着を脱ぎ捨て、白い半袖シャツ一枚になった。
「ならばとくと見たまえ」
猫背の男が身構える。
エドアルドの右腕が弧を描き、胸の前へ掲げられた。拳が握り込まれ、逞しい腕に力こぶがぐっと盛り上がる。
「どうだ、この鍛え抜かれた筋肉!!」
無駄なく引き締まった筋肉が、輝く汗を弾いて眩しく光る。
掲げた右腕にはアイウートと同じ、腕を巡る波形の紋様が刻まれていた。ただ、その波には鱗のような意匠が散っている。
「…………」
猫背の男が言葉を失って固まる。その隙に、カイはバルディンへ駆け寄った。
「おっちゃん、大丈夫か!」
「……問題無い」
言葉とは裏腹に、斧を支えに立ち上がろうとしたバルディンの膝が折れた。
踏ん張りきれず、片手を地面につく。斧を握る手も細かく震えていた。
「無理すんなって!」
慌てて肩を貸そうとするカイに、バルディンは無理はしておらんと軽く手で払った。それから、エドアルドの方へと目を向ける。
「それより、あれは味方か」
バルディンの問いに、カイがうーんと考え込む。
炎の通りのど真ん中で、エドアルドは先程とは別のポーズを取って、その美しい肉体を誇示していた。
「助けてくれたし、多分味方なんじゃない?」
一拍置いて、カイが半笑いで続ける。
「変な人っぽいけど」
「そこの君! 聞こえているぞ!」
エドアルドが言ったと同時に、猫背の男が毒気を抜かれたように短くため息をついた。
落ち窪んだ男の瞳孔が、獲物を捉えて開く。刻印が黄橙色に輝き、右手がエドアルドへ向けられる。
「もういい死ね」
眩い閃光とともに、エドアルドの周囲の空気が立て続けに黄橙色の光を放った。
ポーズを決めたまま、応じるようにエドアルドの右腕の刻印が青い光を放つ。
「眩しいじゃあないか」
手のひらから迸った水が幾重もの奔流へ変わり、渦を巻いて立ち上がる。一つに合わさり、うねりながら背を増していく。
それと同時に黄橙色の光が凝縮され、圧力が限界を超えた刹那、轟音とともに膨張へ転じた。
「連鎖爆撃!」
一つが爆ぜた。その衝撃が次を誘い、また次を呼ぶ。連なる爆発が空気を裂き、大きな火花を散らす。
その爆発がエドアルドに達する間際、反り返る波が飛沫を散らしながら崩れ落ちた。
「青碧の大波」
爆発と波がぶつかり、その圧倒的な質量によって爆圧と衝撃は纏めて呑み込まれた。
熱と水のせめぎ合いで噴き上がった水蒸気が瞬く間に膨れ上がり、辺りを白く染めていく。
「ちっ、何も見えねぇ」
猫背の男が腕で顔を覆う。それから、足元へと目を向ける。
エドアルドの放った大波は、通り一帯を水で満たしていた。燃え盛る火炎の中、膝下程まで静かに水位を上げている。
腰を抜かしていた住民たちもカイもバルディンも魔物も、その場の誰もが水に浸されていた。
「蒸気で何も見えんな……」
片膝を水に浸したまま、掠れた声でバルディンが呟く。火照った空気は、湿り気を帯びて僅かに冷めていた。
住民たちは事態を呑み込めずにいるようだったが、微かに安堵の息が漏れ始めている。
だが、周囲の炎の勢いが止んだわけではない。
「はーはっはっはっ!」
高らかな笑い声とともに、ざぶざぶと音を立てながらエドアルドが歩いてくる。
「いやあ、失敬失敬。皆無事かな」
そう言って辺りへ目を走らせる。
水に座り込んだまま動けずにいる住民たち。怪我を負い、蹲る者。
そして、片膝をついて肩で息をするドワーフと、その傍らで身を強張らせる少年。
その一つ一つを、エドアルドの青い目が素早く捉えていく。快活な笑みが、すっと影をひそめた。
「なるほどなるほど。やはり悪はあの男と見て間違い無さそうだ」
エドアルドが片膝を折り、足元の水へ手を沈める。
「だが、何が起きているのか、少し識らせてもらおうじゃないか」
右腕の刻印が青く光を帯びると、エドアルドの右手を中心に、水面に大きな波紋が広がった。
「水は全てを識る」
まるで夜の湖に一滴の雫が零れ落ちたかのように、波紋が静かに、ひっそりと広がっていく。
それがただ水面を渡るだけのものではないことに、バルディンは気づいた。
膝下の水を通して、肌から身体、そして心へ。全てを見透かされるような、奇妙な感覚をバルディンは覚えた。
「——ふむ」
エドアルドが頷き、振り返ってバルディンをじっと見つめた。バルディンが眉をひそめる。
「何だ」
「素晴らしい骨格筋率だ。君もトレーニングが好きなのかい?」
「……は?」
「それに君の筋肉が教えてくれたよ。やはり僕の目に狂いは無かった」
バルディンが呆れを通り越した目を向けるも、エドアルドは意に介していないようだった。
ひとしきり満足げに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
「このエドアルドの水をもってしても消えない炎。その炎から生まれ、再生する魔物。民を襲う謎の悪人」
言いながら、エドアルドは背中の三叉の槍を抜いた。見据えた先には、晴れ出した蒸気の中で猫背の男が佇んでいた。
「最善最速は、あの悪人を捕らえることのようだ」
エドアルドが槍の穂先を猫背の男へ向ける。男は不敵に笑った。
「やってみろよぉ!」
男が右手を振り上げた瞬間、水面から水で象られた巨大な魚の影が宙を躍った。
「なんだぁ?!」
猫背の男が目を見開く。頭上を舞うそれは、絶え間なく流れ続ける水の輪郭を持っていた。
しなる胴に沿って水流が脈打ち、銀の鱗を思わせる飛沫が光を弾いては、さざ波のように巡る。
大きく張った尾が水を打ち、鰭が透き通るその身を悠然と宙に泳がせる。
その姿は、鮭を模しているかのようだった。
「出番だ、ソフィオン」
ニッと笑って槍を構え、エドアルドが走り出す。水の獣の眼が、静かにエドアルドへ向いた。
『こんなことで私を呼び出すな』
エドアルドの頭の中に、海のように悠々と、それでいて荘厳で深く澄んだ声が響く。
「はーはっはっはっ! そう固いことを言うな、共に躍動しようじゃないか!」
『……これだから人間は』
諦めたようなため息が、エドアルドの頭の中を通り過ぎた。水を蹴り、猫背の男へ距離を詰める。
呼応するように、頭上から津波とともに水の獣が猫背の男へと躍りかかった。
「お前も魚も、全部纏めて殺してやるよぉ」
男が右手をかざす。黄橙色の閃光とともに、連なる爆発が炸裂する。
爆風は壁となって立ち塞がったが、水の獣はうねりながらその爆炎を波で呑み下した。
噴き上がる蒸気が、二人と一匹の姿を白く覆っていく。金属と金属のぶつかる音が、響いた。
「い、一体何が起きてるんだ……」
カイは呆然と目の前の光景を見つめていた。
傍らのバルディンも、驚きを隠し切れないと言うように口が開いたままになっている。
水が舞い、爆風が吹き荒れ、蒸気が渦を巻く。
目を開けていられない程の水飛沫と熱風に、カイは思わず額のゴーグルをかけた。
それが功を奏したのか、腕で顔を覆う必要が無くなったからか、景色がとてもよく見えた。
そしてふと、カイの視線は炎の一角に吸い寄せられた。
「あれ……」
水を浴びても、爆風に煽られても、その炎の揺らぎは乱れること無く、一定のリズムで燃え続けていた。
カイはその燃え方を昔、見たことがあった。




