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甦生のアストログマ  作者: ボリカツ
トレミア共和国序編
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第33話 律のアストログマ

「おかしいなぁ、気配を絶っていたつもりだったのに」


 脇道の暗がりから、緩やかに影が形を結ぶ。長い棍を肩に担いだ、細身の輪郭。


 炎を映した薄紫色の瞳が、柔らかく細められる。


「隠れるの、下手でした?」


「ここへ何しに来た」


 ゼヴァルが鋭い視線を向ける。ネロは含んだ笑みを浮かべながら、道の途中で足を止めた。


「商会の傭兵として、皆さんを助けに」


「そうか」


 呆れたように、ゼヴァルは剣槍の切っ先をネロへと向けた。


「ならその殺気は、どういう了見だ」


「ふふ、やっぱりゼヴァルさんは只者ではないですね」


 ネロの微笑は崩れなかった。


「ソーリアで一目見てわかりました。ゼヴァルさんは強い。そして、僕と同じ生き物だと」


「……どういう意味だ」


 ゼヴァルの眉が僅かに寄った。


 棍を担ぎ直しながら、ネロが小さく笑う。ちりん、と腰元で鈴が鳴った。


「ゼヴァルさんの瞳は、闇に沈んだ色をしていますよ」


 ゼヴァルは取り合わず、刃先をネロへ向けたまま間合いを一歩詰めた。


「戯言に付き合うつもりは無い」


「それは残念」


 そう言ってネロが笑う。ほんの一瞬、ゼヴァルの瞳が揺らいだことをネロは見逃してはいなかった。


「僕はもっと、ゼヴァルさんとお話がしたいのに」


 ゼヴァルは応じない。眼差しだけが、ネロの一挙一動を追っている。


「目的は何だ」


「さあ、何でしょうね」


「この騒動はお前の仕業か」


「そうだと言ったら?」


 ゼヴァルの足が地を蹴った。剣槍の刃がネロの喉元へ一直線に伸びる。


 ネロは棍を肩から滑らせ、流れるような円の軌道で剣槍を外側へと受け流した。


 棍に結わえられた鈴がシャラシャラと音を立てる。


「——!」


 ゼヴァルが目を見開く。ネロの右腕が袖の内側で、薄紫色の光を放っていた。


 刹那、澄んだ音が棍から剣槍を伝って、ゼヴァルの腕の骨へ染み入った。それから肘、肩、首、頭。


 音が身体の芯を撫でていく感触に、ゼヴァルの足が泳ぐ。体の重心がどこにあるのか、一瞬見失う。


「足元がふらふらですよ?」


 ネロが棍を跳ね上げ、ゼヴァルの剣槍を弾き返す。体勢を崩されたゼヴァルは、よろめきながら後ろへ退いた。


「……何をした」


 頭の芯が揺れているような、地面が傾いているような感覚にゼヴァルは襲われていた。


「さあ? 律のアストログマを見るのは、初めてですか?」


 小首を傾げ、ネロがわざとらしく棍を揺らして鈴を鳴らす。剣槍で体を支えながら、ゼヴァルがネロへと向き直る。


「……音か」


「御名答。さすがゼヴァルさん」


 にこにこ笑いながらネロが手を叩く。


「でも、僕のアストログマはある方面に特化させてまして——」


 言いながら、棍を振り被ってネロが踏み込んだ。右手から薄紫色の光が放たれる。


「わかったところで、どうしようも無いと思いますよ?」


 棍が横薙ぎに走った。剣槍を立てて、ゼヴァルがそれを柄で受け止める。


 衝撃とともに結わえられた鈴の音が響き、ゼヴァルの体から力が抜けていく。


「ぐっ……」


 目の前がぐらりと傾く。地面も壁も炎も、ネロの立ち姿までもが同じ方向へ滑り落ちていく。


 身体がそれに取り残され、踏ん張ろうとした足があるはずの地面を踏み損ねた。


「僕の音は三半規管に響き、身体の平衡感覚を狂わせる」


 棍が翻り、ゼヴァルの脇腹へ叩き込まれる。


「が、はっ……!」


 衝撃が肺を突き上げ、息が押し出される。


 ゼヴァルの体は横へ飛び、受け身も取れないまま肩から地面へ叩きつけられた。


「音は振動。耳を塞いでも逃げられない」


 ネロが地に伏したゼヴァルへと歩み寄る。


 鈴の音が、ゼヴァルの頭のすぐ内側で鳴っているように反響していた。


 立て、と自分に命じる。剣槍を支えに身を起こそうとした、その手の甲を棍の先が軽く叩いた。


「もう終わり、なんてこと無いですよね?」


 炎の照り返しがネロの瞳に揺れる。表情は笑っているが、その瞳の奥は笑っていなかった。


「……当たり前だ」


 ゼヴァルの左腕の刻印から水色の光が放たれる。棍で押さえつけられたまま、手のひらを地面に叩きつける。


氷の爪(レコルファルグ)!」


 鉤爪のように反り返った太い氷柱が一本、地面から突き上がった。


 しかし、氷柱はネロの立つ位置から大きく外れて虚空を裂いた。


 ゼヴァルの視界は絶えず揺れていた。さっき狙った場所が今どこにあるのかさえ、掴めなかった。


「残念。少し期待し過ぎましたかね」


 氷柱を見上げ、ネロが薄く笑う。棍を滑らせ、ゼヴァルの背中へ突き下ろす。


「ぐ、ぁ……!」


 肩甲骨の間に、鈍い衝撃が走る。剣槍を握っていたゼヴァルの手から、力が抜けた。


「加減はしておきました。しばらくは動けないと思いますけど」


 ネロが棍を引き、前髪をスッと片手で払う。


「さて。もうこの町に用は無い。ゼヴァルさんとも遊べたし、僕はこの辺で失礼します」


「待、て……」


 掠れた声でゼヴァルが手を伸ばす。ネロは屈み込み、ゼヴァルの顔の前でニコッと笑った。


「凄い! まだ喋れるんですね、さすがゼヴァルさん。やっぱりゼヴァルさんは、僕が欲しいなぁ」


 言葉を発しようとして、ゼヴァルの口から息が漏れた。伸ばした指がネロの服の裾を掠め、届かずに落ちる。


 ネロはそれを見下ろしながら、ゆっくりと目を細めた。


「もしここを生き延びられたら、西海岸の港町ペラゴに来てください」


 ゼヴァルの背後からは、ゆっくりと魔物の群れがにじり寄ってきていた。


「僕らの目的も、この国の行く末も……そこで全て知ることができます」


 ゼヴァルの手から力が抜けていく。瞼は重く、意識が遠くなっていく。


「さようなら、ゼヴァルさん——」


 ちりん、と鈴が鳴る。その音がどこへ遠ざかっていくのか、もうゼヴァルにはわからなかった。


 入れ替わるように、炎の向こうから迫る足音が、すぐそこまで近くなった。


「——ちょっとあんた! 生きてんの!」


 キャラメル色のポニーテールが揺れる。ゼヴァルの意識は、そこで途切れた。



 *



 路地を抜けた先の広場は、かろうじて火の手を免れていた。


 石畳に住民が身を寄せ合い、テレーノ商会の傭兵たちが忙しなく行き交っている。


「——リエルさん!」


 路地から駆けてくるアイウートの姿を認めて、リエルが顔を上げる。


「アイウートさん! ゼヴァルさんは……?」


 視線はすぐにアイウートの後ろへ——炎に霞む路地の奥へと流れた。


「それが……」


 アイウートが足を止め、肩で息をする。後ろめたそうに視線を落とす。


「急に、用ができたと仰って路地に残られました。脇道の方へ向かわれたみたいなのですが……」


「そんな……」


 リエルの顔から血の気が引いた。


「わたしも、そこに行きます」


「ま、待ってください!」


 路地へと向かおうとするリエルの腕を、アイウートが咄嗟に掴んだ。


「今から路地に戻るなんて、き、危険です!」


「放してください!」


 リエルがアイウートの腕を振り払う。しかし、その足はとぼとぼと歩幅が狭くなった。


 路地の地面を覆っていた氷は既に溶け、焼け落ちた(はり)を踏み越えて魔物が蠢いていた。


「……嫌な予感がするんです」


 呟いて、リエルは胸の前で両手を組んだ。気が気ではなく、力がこもる。


 アイウートも頷く。脳裏をよぎったのは、ゼヴァルのことだけではなかった。


「バルディンさんとカイさんも、路地の入口ではぐれたきりです」


 弾かれたようにリエルがアイウートへ振り向く。


「お二人と、ご一緒だったんですね」


「はい、ただ……」


 アイウートの声が自然と低くなる。


「大量の魔物に囲まれて、今頃どうなっているのか……」


 言いかけて、アイウートは口を噤んだ。重い沈黙が落ちる。


 リエルは黙ったまま、路地の奥へと目を凝らす。


 燃え盛る炎の中にゼヴァルの姿は無く、言葉にできない不安と焦燥感を覚えた。


「……ゼヴァルさんは」


 リエルがぽつりと言葉を零した。


「別れる際、他に何か仰っていましたか」


 顔を上げ、アイウートはリエルを見つめた。不安に沈むその横顔は可憐で、しかし何故か強かに映った。


 翡翠色の瞳は路地から逸れること無く、ただ、必ず帰ってくるはずのその姿を信じているようだった。


 アイウートの口から、言葉が漏れる。


「……後は、任せる」


 その言葉を、アイウートは胸の中でもう一度繰り返した。それから、バルディンの言葉。


『頼りにしておるぞ』


 炎を映すリエルの瞳が揺らめきながら光る。アイウートは、ぎゅっと両手を握り締めた。


「そうだ、僕は任されたんだ」


 呟いて、振り返る。


 逃げ延びた人々、傷ついて動けない者、親とはぐれた子供——それに手を差し伸べる、商会の傭兵たち。


 だが、その手はまるで足りていない。


「僕に、できること……」


 一つ、大きく深呼吸をする。眼鏡を直し、アイウートは住民たちの元へ向き直った。


「僕は皆さんが無事だと、必ず戻ると信じています」


 リエルはすぐには頷かなかった。


 ぱき、ぱきと炎に炙られた建物の柱が、耐えきれずに傾いていく。炎が噴き上がり、火の粉を散らしながら崩れていく。


「だから僕は、僕にしか今できないことをやろうと思います」


 アイウートが続けた。リエルは小さく息を吐いて、目を閉じる。


 開いた時、リエルの瞳はもう路地ではない場所を映していた。


「ええ、そうですね」


 まだ震えの残る声で、それでも確かにリエルは頷いた。


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