第32話 水と氷
「——危ない!」
アイウートが倒れた男性に覆い被さるように身を伏せた。崩れ落ちた瓦礫の地響きが、背後で唸りを上げる。
やがて音が引き、腕をどけて振り返ると、路地の入口は瓦礫の山に塞がれていた。
「バルディンさん、カイさん……」
返る声は無く、熱風が頬を掠め、火の粉が首筋を焼くばかりだった。
アイウートは唇を引き結び、庇った男性の腕を肩に回して立ち上がる。
周囲を見渡せば、逃げ遅れた住民が数人、地面にへたり込んでいた。ゆっくりと、魔物が迫っている。
——しっかりするんだ。
折れそうになる心を鼓舞して、剣を握る。走り出しながら、青い光とともに刃に薄く水を纏う。
「路地の奥へ! この先を抜ければ大通りのはずです!」
近くにいた魔物の胴を薙ぐ。動きが鈍った隙に、住民の手を取って立ち上がらせる。
「大丈夫ですか」
「あ、足が……」
男性は片足を引きずりながら、その場に膝をついた。太腿にガラス片が刺さり、傷口から血が滴っていた。
「僕が支えます」
男性の腕を肩に回して引き起こす。顔を上げれば、別の場所で住民が魔物に襲われていた。
「——っ」
眼鏡の奥で瞬きが速くなる。アイウートは短い謝罪とともに男性を壁にもたれさせ、走った。
「助けて……」
へたり込んでいた女性が、こちらへ手を伸ばす。魔物が腕を広げて、女性にのしかかる。
この距離では、もう間に合わない。
「くそっ! くそぉっ!」
——僕は、なんて無力なんだ。
諦めかけたその時、淡い光の粒が目の前でそっと弾けた。女性と魔物の間に、光が線を結んで壁となる。
「全員伏せろ」
それから、聞き覚えのある冷静な声。
「氷の白雨」
鋭く尖った無数の氷が、空から雨のように降り注いだ。
住民たちの悲鳴を切り裂き、魔物の体に氷が突き刺さっていく。
やがて氷の雨が止むと、後には薄っすらと白い霜を纏った魔物たちが、身動きを封じられて沈黙していた。
アイウートはへなへなとその場に座り込んだ。
「ゼ、ゼヴァルさん……」
炎が照り返す路地の向こうから、剣槍を提げて歩いてくるゼヴァルを呆然と見上げる。
路地の奥へ逃げていた住民たちは、何が起きたのか呑み込めていない表情で、互いに顔を見合わせている。
「無事か」
ゼヴァルがアイウートの手前で足を止め、片手を差し出す。
その手を取り、アイウートが半べそをかきながら立ち上がる。
「もう、駄目かと思いました……」
身を起こしたアイウートは傷と火傷だらけだった。ゼヴァルはそれに目を留めた後、短く言った。
「よく頑張った」
「……はい、はいぃ……」
アイウートは眼鏡の奥を潤ませ、何度も何度も頷いた。ゼヴァルは路地へと振り返る。
壁に寄りかかる女性の傍らに、リエルが膝をついている。女性の腕の傷へ、右手をかざしていた。
「もう大丈夫です。あと少しだけ、我慢してくださいね」
刻印の花弁の意匠から金色の光が漏れ、焼け爛れた皮膚を元の滑らかな肌へと再生していく。
女性はぽかんとして自分の腕を見つめた。
「痛みが、引いて……」
「よかった。立てますか」
リエルが手を添えて女性を助け起こす。
「ありがとう、ありがとう……」
何度も頭を下げた女性に、リエルは柔らかく微笑んだ。
ゼヴァルは前へと視線を戻す。霜を纏った魔物たちの体に、じわりと炎が滲み始めている。
「しぶといな」
ごしごしと涙を拭った後、アイウートが眼鏡をかけ直しながら頷いた。
「そ、そうなんです。ああ、それにバルディンさんとカイさんが……!」
「バルディンがどうした」
瓦礫で塞がれた路地の入口を、アイウートが震えながら指差す。
「あの瓦礫の山の向こうで、大量の魔物と戦っているんです! 早く助けに行かないと……」
その時、瓦礫の向こうで空気を裂くような爆発音が上がった。
地面が震え、微かに人々の悲鳴が漏れ聞こえてくる。アイウートの顔が青ざめた。
「い、今の爆発は……?」
「バルディンは、そう簡単にくたばりはしない」
そう言ってゼヴァルは剣槍を構え、静かに魔物へ向き直った。
気負いは無く、ただ本心を口にしているのだと、その横顔からアイウートは感じた。
「……ええ、そうですね。バルディンさんとカイさんを信じましょう」
アイウートが眼鏡をかけ直し、剣を握り直す。気づけば体の震えは止まっていた。
「僕たちは、まずここを切り抜けないとですね」
そう言って住民たち、そして魔物へと目を向ける。
逃げ遅れた住民たちは、皆リエルの結界に寄り添うように身を固めていた。
立ち上がった魔物の何匹かは、既に結界を襲っている。炎を纏った腕が光の膜を叩き、その度に光が波を打つ。
「何とかして魔物を足止めし、住民の皆さんを避難させましょう」
ゼヴァルが頷いて魔物の群れへ走り出す。アイウートはそれに続きながら、躊躇いがちに言葉を続けた。
「そ、それでですね、実は僕に考えがあるのですが……」
「何だ」
アイウートがごくりと唾を呑む。
「ウモラ湿原で、蛙の魔物と戦った時のことを覚えていますか……?」
「ああ」
ゼヴァルが剣槍を薙ぎ、近くの魔物を牽制する。アイウートが水を纏った刃で、その魔物の動きを止める。
「ゼヴァルさんに助けて頂いた時、僕の水のアストログマを通して魔物が凍りついていました。あれを、またやりませんか」
そう言ってアイウートは魔物の足元へ目を向ける。
「地面に水を撒くくらいなら、僕にもできます。そこへゼヴァルさんの氷が合わされば、一度に魔物の動きを止められないかなと……」
魔物を剣槍で引き剥がしながら、ゼヴァルは短く頷いた。
「わかった」
「ありがとうございます!」
アイウートが剣の刃を地面に突き立てる。
青い光とともに、刃から流れ出た水が地を這い、魔物たちの足元へ薄く広がっていく。
その水面へ、ゼヴァルが左の手のひらを添えた。冷気が、水を伝って走る。
凍結が地面を駆けるように広がっていき、燃え盛る魔物の足まで凍りつかせた。
「皆さん、今のうちです!」
アイウートの声に、結界の内側で身を固めていた住民たちが顔を上げる。
「こちらへ。私に続いてください」
応じるようにリエルは結界を解き、人々を路地の奥へと促した。
魔物の間を縫うように、リエルと住民たちが路地の奥へ走り出す。その先から、複数の足音が聞こえてくる。
「こっちだ! まだ人がいるぞ!!」
テレーノ商会の腕章を付けた複数の傭兵が、路地の奥から駆けてきた。
「怪我人はこちらへ! 奥に救護の場を設けている!」
傭兵たちが住民を引き受け、次々と奥へ導いていく。アイウートは剣に体重を預けながら、大きく息を吐いた。
「た、助かった……」
ゼヴァルがぽんとアイウートの肩を叩いた。
「いい連携だった」
アイウートが目を瞬く。置かれた手の重みを確かめるように、肩を見つめる。
それから眼鏡の奥がじわりと熱くなり、慌てて俯いた。
「そこの傭兵! まだ動けるか!」
路地の奥から傭兵の一人が声を張った。
「早くこっちへ来い! 逃げ遅れるぞ!」
「……はい! 今行きます!」
手の甲で目元を素早く拭い、アイウートは眼鏡を押し上げる。
頬にはまだ涙の跡が筋を引いていたが、その目はしっかりと行く道を映していた。
「急ぎましょう、ゼヴァルさん!」
二人は燃え盛る路地を、奥へと駆け出した。
広場へと続く道にはまだ、火の手は完全に回っていないようだった。路地の終わりが近くなる。
「——アイウート」
ゼヴァルの足が不意に止まった。
「先に行け」
「え……?」
困惑した表情でアイウートが振り返る。路地の向こうから、リエルも心配そうにこちらを見つめている。
「ゼ、ゼヴァルさんは……?」
「用ができた。後はお前に任せる」
「でも、魔物がまだ——」
「いいから行け」
ゼヴァルの張り詰めた表情が、それ以上の問答を許さなかった。
「……わかりました」
アイウートが走り出す。
「必ず、また後で合流しましょう」
ゼヴァルは小さく頷き、アイウートの背中を見送った。それから、脇道の方へ視線を向ける。
炎が爆ぜる音に混じって、場違いに澄んだ響きがちりん、と一つ鳴った。




