第18話 段丘の怪鳥
日が傾き、谷が赤く染まり始めると、村は一層静まり返った。昼間の晴天が嘘のように、重い雲が空を鈍色に染めていく。
「そろそろか」
バルディンの一声とともに三人は宿を後にした。ティカの視線を感じたような気がしてリエルは振り返ったが、そこには誰もいなかった。
家並みを抜けて村を進んでいく。家々の明かりが一つ、また一つと消えていき、あちこちから戸の閉じる音が聞こえてくる。
「どこに向かっているのですか?」
「見晴らしの良い場所じゃ。魔物がどこから来るのかわからんからな」
そうして三人は見張り台のあった場所へと向かった。
程なくして辿り着いた見張り台の下には、昼間に会った男性がまだ立っていた。工具を木箱に片付け終え、立ち上がった男性が三人に気づいて目を見開く。
「……本当に、魔物と戦われるのですか」
「そうじゃ、お前さんも早く逃げた方がええ」
バルディンがそう言うと、男性は少し考えた後ゆっくりと首を横に振った。
「こう見えて私は、この村の村長をしております。村のために戦ってくださるあなた方を置いて、自分だけ逃げ出すようなことはできません」
「心意気は受け取るが、戦いの邪魔になる」
バルディンがきっぱりと断ると、村長の男性は俯いてしまった。それから、そっと見張り台に優しく触れる。
「それでしたら、せめて、この見張り台の陰にいさせてください。邪魔はしません、どうか……」
バルディンがやれやれと髭を撫でる。その時、ゼヴァルが空を見上げた。
「何かいる」
ひゅるるる、と細く尾を引く声が響いた。
「奴です……!」
村長が慌てた様子で見張り台の陰へと身を隠す。リエルとバルディンは声がした方を見上げた。
大きな影が頭上を旋回している。
暮れていく空の薄闇に溶けてその姿は見えなかったが、爛々と輝く赤い目が旋回に合わせて空に光の筋を残している。
「来るぞ!」
ゼヴァルが声を上げた次の瞬間、影が真っ直ぐに急降下してきた。無音のまま、影はみるみる大きくなりながらこちらへと迫ってくる。
「速い——」
「下がれ!」
武器を構える間も無く、闇を裂いて伸びた巨大な鉤爪が咄嗟に前へ出たバルディンの右肩を抉った。
「バルディン!」
「ぬうう……!」
鈍い音とともにバルディンの体が吹き飛び、地面を二転、三転する。
魔物は空へと舞い戻り、再び薄闇に紛れていく。地に伏したバルディンの肩からは血が滲み出していた。
「バルディンさん!」
リエルがバルディンの元へと駆け出す。それと同時に、薄闇の高みで赤い光の筋がぐるりと向きを変えた。
「……! 次が来るぞ!」
ゼヴァルの声が飛び、リエルは思わず立ち止まる。魔物がバルディンへと狙いを定め、急降下してきている。
「ちっ……」
ゼヴァルが剣槍を構えると同時に、その左腕が水色に輝く。その時だった。
「こ、こっちだ……!」
見張り台の陰から村長が転がり出てきた。両手を振り上げながら声の限り叫ぶ。
「こっちを向け、化け物め!」
魔物の赤い眼光がぐらりと村長へ向いた。声に引き寄せられるように、魔物が村長へと進路を変える。
「いけない……!」
リエルが向きを変え、村長の元へと走った。鋭い魔物の鉤爪が村長へと迫る。
「う、うわああああ!!」
村長が頭を庇ってその場に蹲る。リエルは走りながら腕を突き出した。
「届いて——!!」
リエルの右腕の刻印が光を放つ——金色の光が半球状に村長を包み込み、迫りくる魔物を正面から受け止めた。
魔物の体が光の膜に弾かれ、空中で体勢を崩す。夜鷹を思わせるような褐色の巨体と大きく裂けた口、そして力無く泳ぐ翼が薄闇に晒された。
「ゼヴァル……!」
地に伏していたバルディンが血の滲む肩を押さえながら、右手を地面に叩きつけた。刻印から茶色い光が放たれる。
「走れ!」
バルディンの右手からゼヴァルの足元へ、地面がぼこぼこと不規則に波打ちながら土煙を噴き上げた。直後、ゼヴァルの足元の土が魔物の方へとせり上がるように隆起した。
ゼヴァルはそれを一息に駆け上がる。体勢を崩したまま落ちてくる魔物を見据え、冷気を纏った剣槍を低く構え、勢い良く突き出す。
「氷の尖角」
剣槍の先端から、研ぎ澄まされた氷の刃が一筋の閃光のように突き伸び、魔物の胸を貫いた。耳を裂くような甲高い声を上げ、魔物の体が凍りつきながら落下していく。
やがて地面に落ちると同時に氷は砕け散り、魔物は塵となり消え始めた。
ゼヴァルは一つ息をついて剣槍を構え直すと、周囲へと目を向けた。村長を包んでいた結界は既に消えており、バルディンの方へとリエルが駆け出している。
——向こうは大丈夫だろう。
ゼヴァルは足場から飛び下りると、見張り台の方へと向かった。地面に座り込んで茫然としている村長へと歩み寄る。
「大丈夫か」
「まだ、腰が抜けています……」
「手を貸そう」
ゼヴァルが手を差し出すと、村長は震える手でゼヴァルの手を取り、ようやく立ち上がった。
「まさか、本当にあの魔物を倒してくださるとは……」
村長はまだぼんやりとしていた。目の前で起きたことに、頭の整理が追いついていないようだった。
ゼヴァルは坂の下へ目をやる。
固く閉ざされていた家々の戸が細く開いており、その隙間から漏れる明かりが暗い斜面にぽつりぽつりと灯り始めていた。
近くの家からも、恐る恐る村人が扉から顔を覗かせて様子を確かめ出している。
「これは、一体……」
戸口から漏れた囁きが、夜の静けさに重なっていく。
やがて一人が松明を掲げて外へ踏み出すと、その明かりに導かれるように二人、三人と村人が見張り台の方へ近づいてきた。
その様子を遠目に眺めながら、バルディンは一つ息をつく。緊張が解けたのか、体に鋭い痛みが走り、押さえていた肩からどっと血が溢れてきた。
「ご無事ですか!」
駆け寄ってきたリエルがバルディンの傍らに膝をつき、血に濡れた肩へ手を伸ばす。
「傷をお見せください」
「掠り傷じゃ、問題無い」
渋るバルディンの手をリエルがどけると、鉤爪によって深く抉られた肩の傷跡が顕わになった。掠り傷とは到底呼べるものではなかった。
「これの、どこが掠り傷なのですか……!」
声を震わせながらリエルが傷口へ手のひらをかざす。右腕の刻印が金色に輝き、傷口に光が注がれていくと、溢れ出ていた出血が徐々に収まりだした。
「もう少々お待ちください。この傷跡も治療を……」
しかし、光は傷口の表面をなぞるばかりで、一向に傷跡を塞ぐ様子は見られなかった。
——どうして。
治療院で里のエルフの傷を癒している時もそうだった。軽い擦り傷や切り傷なら癒すことができたが、折れた足や酷い損傷を回復させることはできなかった。
——あの時はできたのに。
牢から保管庫へと向かう途中の出来事、そしてゼヴァルが魔人から受けた傷のことをリエルは思い返す。
——もう一度、あの力を。
焦りに任せて右手に力を込めたその時、そっとバルディンの手がリエルの肩に置かれた。
「もうよい」
リエルははっとしてバルディンを見つめた。手が震え、息が浅くなっていることに今更気づく。
「ですが……」
「血が止まっただけで充分じゃ。それにその力……祝福の力は、あまり無闇に使わん方がええ。お前さん自身への負担にもなりかねん」
「負担……?」
バルディンの言葉の真意がわからず、リエルは力無く垂れた自分の右手に目を落とす。それを横目に、バルディンは肩を庇いながらよっこらせと身を起こした。
「アストログマを過度に使えば、魔力の消費によって体に疲労が現れる。だが、アストログマを使い過ぎて気を失うようなことは普通あり得ん」
バルディンは肩をさすりながらリエルを見下ろす。そして、見張り台の方で揺れる松明の光と人影、その傍らのゼヴァルへと視線を流す。
「お前さんにもゼヴァルにも、御しきれん力が眠っておるようじゃが……強大な力には相応の代償が伴うのが世の常。絶対に使うな、とまでは言わんが、使わないに越したことは無いじゃろう」
「代償……考えたこともありませんでした」
「憶測じゃがな。その力とどう付き合うかは、これからゆっくり考えてみるのがよかろう。時間はある」
リエルの強張っていた表情が少しだけ和らいだ。バルディンは目尻に皺を寄せ、リエルの頭をぽんと叩いた。
「さて、儂らもあちらに戻るとするか」
「……はい」
リエルがバルディンに肩を貸し、二人は見張り台の方へと戻っていった。




