第15話 旅立ち
東の空が白み、森の奥からひっそりと鳥の声が聞こえ始めたばかりの頃。里がまだ眠りの底にあるうちに、ゼヴァルとバルディンは荷物をまとめて足早に客室を後にした。
「忘れ物は無いか」
朝露を含んだ石畳を踏みながらバルディンが言った。
「ああ」
ゼヴァルが前を向いたまま短く返す。
家々の窓は暗く、通りに人の姿は無い。井戸の縁には落ち葉が薄く張りつき、夜の風に運ばれた花弁が一枚、水面に揺れていた。
「そう言えば、あの嬢ちゃんに挨拶をしとらんかったな」
思い出したようにバルディンが言った。ゼヴァルは一瞬考えた末、リエルのことが頭に浮かんだ。
「ファイリリエネスのことか」
「ああ。お前さんも世話になったじゃろう。別れの挨拶も言えずじまいとは、どうにも据わりが悪い」
バルディンが残念そうに漏らす。ゼヴァルは前を向いたまま、低い声で言った。
「だが、もう二度と会うことも無い」
「冷たいことを」
バルディンは肩をすくめた。
藍色と灰色の境を漂う薄明かりの中、その静寂を踏むようにして二人は里の入口へと向かっていく。
水路を抜けた先で、二人はいくつかの灯りが家々の間を縫って揺れているのに気づいた。
足早に人影が行き交っている。低く交わされる声が、朝の静けさの底に微かな波を立てていた。
「夜明けだというのに騒がしいな」
バルディンが歩を緩め、灯りの揺れる方へ目をやった。ゼヴァルもそちらへ視線を流したが、すぐに前へと向き直った。
「何かあったのかもしれないが、もう俺たちには関係無い」
「ふむ」
バルディンが髭を撫でる。
「長居は無用か」
二人は立ち止まることなく石畳の小道を辿っていく。
しばらく歩くと、道の先が不意に途切れている見覚えのある場所に着いた。僅かに小道の先の空間が揺らぎ、外の森の暗がりが薄い水越しのように淡く滲んで見える。
その境界の手前に、長身の影が一つ立っていた。
二人が足を止めると、白銀色の髪をふっと揺らして影がこちらを振り向いた。エスラドールが白い木の傍らで腕を組んで佇んでいた。
「見送りとは意外じゃな」
バルディンが少し目を見張った。
「勘違いするな」
エスラドールは短く返し、冷たい眼差しでゼヴァルとバルディンを順に見やる。
「また結界を乱されても困る。少し待っていろ」
そう言ってエスラドールは揺らぐ空間へと歩み寄り、右手をかざして見えない面に指先で触れた。しかし、考え込むように少し目を伏せ、二人に尋ねた。
「この里に来る途中、森で泉を見たか」
「……? ああ。それがどうした」
怪訝そうに髭を撫でるバルディンの隣で、ゼヴァルが頷いた。
「そうか。なら帰りもその泉を通って行け。森に入ってすぐの湧き水の流れを遡れば、直に辿り着くだろう」
エスラドールはそう言うと、右手に少し力を込めた。刻印が淡く緑色に輝き、見えない壁に水を撫でたような波紋が静かに広がっていく。
揺らぎは次第に大きくなり、やがて人ひとりが抜けられる程の歪みが生まれた。その歪みを見つめながら、エスラドールはぽつりと言った。
「お前たちを待つ者がいるかもしれない」
「待つ者?」
バルディンが眉を上げる。
「何だそれは」
「行けばわかる」
それっきりエスラドールは口を閉ざした。多くを語る気はないらしい、とバルディンは悟る。
「やれやれ、ようわからんが行くぞゼヴァル」
バルディンがため息をついてゼヴァルを促す。ゼヴァルは頷き、二人は出口へと歩き出した。
エスラドールの脇を通り過ぎた時、後ろから声がかかった。
「ハーフエルフに、ドワーフ」
まだ何か、と二人は足を止めて振り返る。エスラドールの表情はどこか遠くを見るように、薄く陰りを帯びていた。
「何だ?」
ゼヴァルが尋ねる。エスラドールは答えず、二人を見つめて何かを考えている。
「用が無いなら行くぞ」
ゼヴァルは訝しげにエスラドールから目を逸らし、結界の歪みへと足を踏み入れた。全身に薄い膜を押し通すような圧がかかる。
「頼んだぞ」
エスラドールの声が聞こえた。振り返るが、結界に空いていた穴は既に閉じ、二人の前からエスラドールの姿は消えていた。
「……何だったんだ?」
バルディンが不思議そうに首を傾げる。ゼヴァルは何か引っかかりながらも、森の暗がりへと向き直った。
*
エスラドールに言われた通り、木々の根元に細く流れる湧き水を辿りながら、二人は濡れた土と枯れ葉を踏み締めて薄暗い森の中を進んでいく。
しばらく進むと、木立が開けて視界の先に見覚えのある泉が見えた。
「着いたか」
バルディンが額の汗を拭いながら泉の畔へと踏み出していく。
「待ち人がいるらしいが、はてさて——」
バルディンの言葉が途切れ、二人は同時に足を止めた。
肩がけの鞄を胸に抱え、淡い緑と生成りの旅装の上に布地の外套を羽織ったリエルが、泉の端に座り込んでいた。
視線に気づいたのか、こちらに向けて顔を上げると、たちまち顔が綻んだ。
「ゼヴァルさん、バルディンさん……!」
リエルは立ち上がって二人へ駆け寄ると、ほっと胸を撫で下ろした。
「よかった、会えなかったらどうしようかと……」
「お前さん、どうしてここに?」
バルディンが目を丸くすると、リエルはふふっと小さく笑う。
「実は、里を逃げ出してきたんです」
「逃げ出してきたじゃと……? それで里が騒がしかったのか」
面食らうバルディンを他所に、ゼヴァルが静かに尋ねる。
「お前は、あの里から離れることができないんじゃなかったのか?」
「そうですね——」
リエルは頷いて、遠い目をした。
「でも、もういいんです。私は、私の気持ちに正直に生きると決めたので」
そう言ってリエルは二人に改めて向き直ると、ぺこりと頭を下げた。
「お二人の旅に、私も連れて行ってくれませんか」
面食らっていたバルディンが腰を抜かしそうになる。ゼヴァルはリエルを黙って見下ろす。
——この少女には恩がある。それに。
里でのことをゼヴァルは思い返す。
牢での会話、治療院での態度、ガラルセンの言葉——こいつにはきっと、居場所が無い。だが、とゼヴァルは思い止まる。
「駄目だ」
「……理由を、教えて頂けますか」
リエルが顔を上げる。翡翠色の瞳とゼヴァルの青い瞳が真っ直ぐに重なる。
ゼヴァルは腕を組み、首を横に振りながら目を逸らした。
「危険な旅だ。お前のような奴を連れてはいけない」
「危険は承知の上です」
「ただの危険な旅じゃない。俺たちは魔人を——」
「存じています」
リエルの声は迷いが無いように透き通っていた。ゼヴァルの視線がリエルへと戻り、バルディンへと流れる。
バルディンはやれやれと髭を撫で、リエルを見上げた。
「また狙われるやもしれんぞ」
「覚悟の上です」
「お前さん、武器は? 戦えるのか?」
「武器は扱えませんが……」
リエルはそう言うと、胸の前で軽く手を組んだ。右腕の刻印が光を帯び、リエルとゼヴァルたちの間に淡い金色の輝きを放つ薄い光の膜が広がった。
「これは……」
バルディンは手を伸ばして膜にそっと触れた。柔らかな抵抗が手のひらに伝わり、触れた箇所から金色の波紋が静かに広がっていく。力を込めるが、膜はびくともしなかった。
「結界か」
「はい。それに私のアストログマは、皆さんの傷を癒すこともできます」
リエルが頷くと同時に、光の膜がゆっくりと消えていった。リエルはバルディン、そしてゼヴァルをそっと見上げる。
「駄目でしょうか……」
「ゼヴァル、儂は降参だ」
バルディンがゼヴァルに目を向ける。ゼヴァルは腕を組んだまま黙っていたが、やがて静かな声で言った。
「外の世界は、お前が思っているような場所じゃない」
その言葉の重みを知るバルディンが、髭の奥で低く唸った。その傍らで、リエルの表情は曇ることなく晴れ渡っていた。
「たとえそうでも、私は付いていきます。もう、逃げたくないんです」
ゼヴァルはその言葉に一瞬目の前が開けるような感覚を覚えた。しかし、すぐに我に返ると、小さくため息をついて首を縦に振った。
「……わかった」
「ありがとうございます!!」
リエルが瞳をきらきらと輝かせて微笑んだ。つられるようにバルディンが豪快に笑う。
「大した覚悟じゃ、歓迎するぞ嬢ちゃん。二人も三人もさして変わらん」
それから、リエルの背中をぽんと叩いた。
「何があったかは知らんが、憑き物が落ちたようじゃな」
「……皆さんのおかげです」
リエルが少し照れくさそうにはにかむ。バルディンは再び笑ってみせると、片手斧の柄を腰で軽く揺すり直した。
「よし、まずは村に戻るぞ。美味い飯とぶどう酒が待っておる。エルフの薄味はもうこりごりだ」
そう言ってバルディンが足取り軽く歩き出した。ゼヴァルがすかさず呼び止める。
「道はわかるのか」
「しまった、わからん」
バルディンが頭を抱えると、リエルがくすくすと笑いながら片手を軽く上げた。
「それでしたら、私にお任せください。森の妖精が案内してくれます」
ゼヴァルとバルディンが目を丸くしていると、リエルの周りにぼんやりと光る朧げな球体がゆらゆらと集まりだした。
「私のお友達なんです。出口はあっちのようですね」
リエルが前方を指差すと、バルディンは意気揚々と再び歩き出した。薄茶色の短髪が軽快に揺れる。
「いい道案内ができた。よし行くぞ」
ゼヴァルもその後を追うように歩き出す。
——助けてくれてありがとう。
不意に微かな声がゼヴァルの耳に届いた。迷いの森の入口で聞いた声と、同じ声だった。
「どうかされましたか?」
急に立ち止まったゼヴァルを、リエルが心配そうに見上げる。ゼヴァルは一つ息をつくと、ゆっくりと首を横に振って踏み出した。
「いや、何でもない」
道の先を朧げに照らす光の球体に導かれながら、三人は森を進んでいく。
三人が立ち去った泉には朝の日差しが温かく差し込み、白い小花の群れと水面を明るく照らし出していた。
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