第10話・変遷を司る獣
ガラルセンが膝の上に重ねていた右手を静かに持ち上げると同時に、長衣の袖が肘のあたりまで滑り落ちた。
前腕の中ほどに輪郭線のみの小さな円が据えられ、そこから数本の細い線が気流のように腕を周回しながら上下へと流れる薄い白緑の刻印が顕わとなった。
「人は皆、右腕に刻印が刻まれた状態で生まれる。そなたらの右腕にもあるであろう。これが神話の時代に神々が人類に授けた力、アストログマと呼ばれるものだ」
ガラルセンの刻印が微かな光を帯び、手のひらの上で空気が静かに渦を巻き始める。
「紋様は違えど、人間の学者によって大まかな分類が成されていることはそなたらも知っておろう。私のこれは風のアストログマと呼ばれているはずだ」
ガラルセンの手のひらの渦はやがて一つの小さなつむじ風となって立ち上り、空気の中へと散っていった。
「神々は人類の繁栄のためにこの力を授け、人類はこの恩恵を享受することで今日まで発展してきた。もちろん我々エルフも例外ではない。魔法、と呼ぶに相応しい力だ」
ガラルセンは右手を膝の上に戻した。
「そして祝福とは、神々の力を色濃く受けたアストログマのこと。言うなれば、神に選ばれし者の力」
ガラルセンがゼヴァルの青い瞳を見据える。
「そなたは重傷を負い、その傷をファイリリエネスが治したそうだな」
ゼヴァルは頷き、脇腹を抉られたあの時の感覚を一瞬思い出した。
「通常の光のアストログマにあそこまでの治癒能力はない。光の女神の祝福の賜物だ」
ゼヴァルの右手が袖の上から左の前腕にそっと触れた。
「…じゃあ、あの狼もその神々というわけか」
「いや」
ガラルセンは首を横に振る。
「そなたのアストログマは祝福を受けている。しかしそれは神が授けたものではない」
ゼヴァルは訝しげに眉を寄せた。
ガラルセンは続ける。
「神話の時代に起きた大戦を存じているか」
「…初耳だ」
ゼヴァルがバルディンに囁いた。
視線はガラルセンに向けられたまま、バルディンが小さく答える。
「古い伝承だ。人間の世界ではおとぎ話に近い。ドワーフの伝承だと確か、光と闇の衝突、神と魔の戦い、だったか」
ガラルセンはゆっくりと頷いた。
「この世界の理――光の女神が司る秩序と、闇の魔王が司る終焉。かつて、この世界を終焉へと導く魔の力に対して秩序を守るために神々が奮起し、神々と闇の軍勢がぶつかり合った巨大な戦争が起きたと、エルフの伝承には記されている」
天井の光石の淡い光が、ガラルセンの肩越しで一度だけ揺らいだ。
「そなたらが遭遇した魔人も闇の軍勢の一種。終焉の力を体現するが如き力を持つ、魔物とは別格の存在と聞かされている」
ゼヴァルの脳裏に、アポスタティアの姿と空間を消し去るような力がよぎった。
傍らのバルディンの肩が僅かに強張り、壇の脇のエスラドールの指先が一瞬だけ止まる。
「だが、大戦において勝利した神々は、魔の力のほとんどを封印したとされている。闇の魔王は無論、魔人も例外ではない」
「話が見えないな」
ゼヴァルが吐き捨てた。
「聖獣とやらは一体何者なんだ」
「慎めハーフエルフ」
エスラドールが静かに言い放ち、ガラルセンは一つ咳を払った。
「この世界にはもう一つ理がある。秩序を終焉へ、終焉を秩序へと循環させる移ろい、変遷を司る獣。それがそなたの祝福の源だ」
「変遷を司る獣…」
ゼヴァルの瞳が揺れた。
「聖獣に選ばれしハーフエルフよ」
ガラルセンの声色が葉擦れの音を遠ざけるほどに静まった。
「先の通り、魔人は太古に封印された存在。それが突如現れたことと、そなたが居合わせたことは半ば必然と捉えて然るべきと考える」
葉擦れの音が途切れ、乾いた木の香りだけが空間の底に残った。
「この里に厄災を持ち込んだ償いとして、役目を果たしてもらおう」
ガラルセンの瞳がゼヴァルを捉える。
「魔人が現れた理由を調べ、魔人を再度封印するのだ。そして、二度とこの森に立ち入るな」
頭上の彼方で、葉擦れの音が再び細く鳴り始めていた。
ゼヴァルは黙ったままガラルセンの眼差しを真っ直ぐに受け止め、バルディンは髭の奥で低く唸った。
「随分と勝手な話だ。魔人のことを儂らに押し付けた挙句、この森に立ち入るなとは」
「目的地は与えよう」
ガラルセンは膝の上の指を僅かに組み直し、静かに口を開いた。
「聖なる森と呼ばれる地にシルマレンというエルフの里がある。そこには、全てを見通す力を持つエルフが住んでいるとされる」
「聖なる森…オルビス湖の畔に広がる原生林のことか」
バルディンが腕を組み直し、ゼヴァルに目をやる。
「大陸の遥か北、ノディア高原の先にある土地だ。途方もない旅路になるぞ」
「…そのエルフは」
ゼヴァルの胸が一度だけ深く上下した。
「どんなことでも知っているのか」
「確かなことは言えぬ。ただ、我々エルフの寿命は千年程度だが、そのエルフは数千年という悠久の時を生きていると聞く」
ガラルセンの返答に対して、ゼヴァルは天井を仰ぎ、静かに息を吐いた。
「バルディン」
「何じゃ」
「俺は、故郷を滅ぼした魔物がどこにいるのか知りたい」
「知ってどうする」
腕を組んだまま、バルディンの瞳はゼヴァル自身よりも一歩深いところを見据えていた。
「倒すさ」
「何のためにだ」
バルディンに向き直ったゼヴァルの瞳は儚く揺れていた。
「わからない。ただ、倒すべきだと思っていた。故郷のためなのか、自分のためなのか…理由はどうであれ、いつか、必ず」
「ふむ」
バルディンが髭を撫でる。
その目はどこか遠い目をしていた。
「…まあ、行く当てのない旅より、目的地がある方が旅らしいか」
口元が僅かに緩んだ後、ゼヴァルはゆっくりと立ち上がった。
「その依頼、引き受けさせてもらう」
「よかろう」
ガラルセンが小さく頷いた。
「ならば明日の朝、早々にこの里から立ち去られよ。さすれば今回の件は不問とする」
壇の脇のエルフは無表情のまま佇んでおり、ヴォルンドルは小さく舌打ちした。
エスラドールはただじっと目を閉じていた。
バルディンも腰掛けからゆっくりと立ち上がると、居住まいを正した。
「他に用がなければ、儂らは失礼させてもらおう」
返答はなかった。
二人は身を返し、扉の方へと足を向けた。
苔を張った土の床が、二人の足音を吸い込んで沈黙の中に溶かしていった。
「命拾いしたな」
ヴォルンドルの脇を通り過ぎる瞬間、低い声が二人の背に投げかけられた。
「ガラルセン殿の厚意を噛み締めろ、俗物ども」
ゼヴァルが何かを言いかけて止め、二人は扉の方へと黙って歩を進めた。
樹皮の扉を屈んで潜り抜けると、空は既に深い藍色に沈み、大樹の梢の彼方で星が一つ二つと瞬き始めていた。
「…あ」
夜風が梢を揺らす中、大樹の根元から少し離れた小道の入り口にリエルが立っていた。
軽く会釈をしてリエルが二人の方へと歩み寄る。
「長老とのお話を終えられたのですか」
「ああ」
「その、どうでしたか」
ためらいがちにリエルが尋ねた。
「今回は目を瞑ってもらえるそうだ」
バルディンが肩をすくめる。
リエルは胸をなで下ろした。
「そうですか、よかった…」
「お前さんこそ、どうしてここに」
「私は…」
リエルは大樹の脇から伸びる細い小道に視線を流した。
「治療が終わったので、家に帰る途中でした」
ゼヴァルとバルディンがリエルの視線の先へ振り返る。
家並みから続く石畳の道とは異なり、むき出しの土の上に苔と落ち葉が散った道が大樹の根を縫うようにして奥へと細く伸びていた。
里の光石の灯りからも遠く、道の先が夜の闇に沈んでひっそりと佇んでいる。
「私の家はこの大樹の近くなのです」
夜の匂いが混ざる澄んだ空気が一筋流れ、リエルの編み髪をなびかせる。
リエルの表情はどこか寂しげだった。
「まだいたのか」
扉からヴォルンドルが顔を覗かせた。
冷ややかな金色の瞳がゼヴァル、そしてリエルに向けられる。




