増殖
相馬は玄関から戻ると、工具箱を床へ置いた。
小部屋のドアは閉じたままだった。
さっきまで壁を叩き、床を這い、自分の首へ巻きついていたものが、その向こうで音ひとつ立てていない。
玄関からの明るさはここまで届かず、窓の光が床の一部だけを白くしていた。壁際にはゴミ袋や段ボールが残り、玄関までの通り道にはみ出している。
相馬はそれらの位置を確かめてからしゃがみ、工具箱を開いた。
カッターの刃を折る。
ぱきん。
新しい刃を一段だけ出す。
汚れたニトリルを外し、新しいニトリルを三枚重ね、その上から肘までの厚手のゴム手袋を引き上げた。指を握ると、四枚のゴムがきゅっと鳴った。
これでは道具をうまく扱えないかもしれない。それでも、一枚たりとも脱ぐ気にはなれなかった。
スクレーパーを腰の後ろへ差し、手鉤を左手に持った。
小部屋の前には、さっきカッターで切り落としたシーツの一片が残っていた。
相馬は近づかず、手鉤の先で布端を引っ掛けて裏返した。
黄ばんだ白布が縮んだ。
相馬の手が止まった。
しばらく待つ。
もう一度つついた。
今度は端が数センチ持ち上がっただけで、すぐ床へ落ちた。
鉤先を離しても追ってこない。
相馬は布片を見下ろした。
大きいから人間を持ち上げられる。
小さくなれば弱る。
なら、全部小さくすればいい。
そう考えなければ、もう一度あの部屋へ入る気にはなれなかった。
高橋を飲み込んでも消えなかった黒褐色は、小林の身体がベッドへ残した染みと同じ色だった。
相馬は洗剤を溶かした水の容器を壁際へ置いた。
使えるかどうかは分からない。
試すなら、まず止めてからだ。
倒れていたゴミ袋を足で押し退け、工具箱も壁際へ寄せた。
段ボールと濡れた雑巾も、玄関までの動線から外す。
何度も現場でやってきたように、相馬は玄関までの数メートルだけ床を空けた。
視界の端で、小部屋のノブが動いた。
相馬は床から目を切った。
誰の手もないノブがゆっくり半回転する。
かちり。
扉の留めが外れた。
ぎぃ……
扉が五センチほど開いた。
相馬はカッターを構えた。
隙間の奥は暗い。
そこへ、白いものが出てきた。
最初に肩。
続いて、頭の膨らみ。
長く垂れた二本の腕。
高橋を飲み込んだシーツが、人間の輪郭を保ったまま、身体を横にしてドアの隙間を抜けてくる。
足もない裾が床を擦るだけなのに、一歩進むたび左右の肩が交互に上下した。
相馬の左手が手鉤を強く握った。
高橋が歩く時の動きだった。
人影が部屋へ出切った。
垂れた裾に押され、背後のドアがゆっくり戻っていく。
相馬はその動きを見ていた。
ドアが閉まる。
かちり。
「……てめえ」
人影が止まった。
顔のない頭が傾く。
相馬の喉の傷が、息を吸っただけでひりついた。
頭は、人間なら首が折れる角度を越えても止まらず、布の膨らみが肩へ触れそうなところまで倒れた。
次の瞬間、人の形が潰れた。
肩も腕も一度に消え、白布が床へ広がる。
相馬は手鉤を振り下ろした。
遅い。
鉤先が届くより早く、白布の縁が腰へぶつかった。
足が床を離れ、次の瞬間には背中を打っていた。肺から空気が押し出される。
「ぐっ!」
息を吸い直す間もなく足首が締まり、身体が引きずられた。背中のシャツが畳を擦り、寄せておいたゴミ袋が視界の端を流れていく。
相馬は引きずられながら手鉤を振る。
――掛からない。
鉤先が触れる直前に、そこだけ布が折れて潰れた。返すころには、別の縁がもう脛まで上がっている。
手鉤では捕まえられない。
「くそっ」
相馬はカッターを腰へ戻すと、スクレーパーを足首と白布の間へ押し込んだ。
布が肉へ食い込み、金属の角まで足首へ当たる。
体重を掛けて捻る。
わずかに開いた。
相馬はそこへ右の踵を押し込み、靴を脱いだ。
片足が抜ける。
横へ転がり、その勢いで立ち上がった。
脱げた靴が、白布に包まれたまま壁へ叩きつけられた。
白布がまた来た。
横へかわしたが、右肩を打たれ、そのまま壁へぶつかった。
白い面が胸へ押し寄せる。
相馬はスクレーパーを割り込ませた。
金属板ごと胸へ押し戻され、背骨が壁へ当たる。
「ぐ……はっ」
白い縁が顎の下へ入り込んだ。
相馬は首を縮め、スクレーパーを横にした。締めつけは金属板へ移ったが、柄がじりじりと喉へ迫ってくる。
息を吸うたび、金属が皮膚を押した。右腕に力を込めても、震えるばかりで押し返せない。
このまま受け続ければ潰される。
相馬はスクレーパーを押し上げ、顎の下にできた隙間へ左肩をねじ込んだ。板を手放して白布の縁から身体を抜く。
片膝をついた瞬間、裾が頬を打った。
振り向いた時には、人影はもう立ち直っていた。
相馬は息を止めた。
手鉤では捕まらず、スクレーパーでは防ぐだけ。カッターを効かせるには、布を張らせるしかない。
腰のカッターを右手で抜いた。
こいつは、一度捕まえたものを離さない。高橋も、自分もそうだった。
視線が左手へ落ちる。
厚手のゴム。
その下にニトリル三枚。
相馬は指を握った。
まだ動く。
左腕を身体から離した。
手鉤を握ったまま、前へ差し出す。
人影の動きが止まった。
顔のない頭が、左手へ向く。
「来いよ」
一瞬、床の白布が縮んだ。
次の瞬間には、左手首が締まっていた。
「っ!」
身体ごと前へ引かれる。
反射的に腕を引きかけた。
止める。
抜くな。
白布が手首から前腕へ這い上がる。
厚手のゴムが締まり、手袋の皺が消え、指の形まで分からなくなっていく。
相馬は腕をさらに差し出した。
食え。
もっと食え。
ここで止まれ。
人影が強く引いた。
一歩持っていかれる。
相馬は二歩目を、自分から踏み込んだ。
左肘を脇へ締め、巻きついてきた白布の内側で手鉤を返した。鉤先が布を捉える。人影が腕を引き、相馬の肩が前へ持っていかれた。
白布が相馬を掴み、相馬も内側から白布を掴んでいた。
右手のカッターを近づけた。
届く。
だが切りたい場所がまだたるんでいた。
相馬は左腕ごと壁へ叩きつけた。
肩の奥まで衝撃が走る。
白布を前腕と壁の間へ挟み込むと、手鉤を支点に一部分だけが細く張った。
そこだ。
右手のカッターを入れる。
刃先が織り目を捉えた。
人影が身体を捻った。
相馬の手首まで捻られ、刃が外れる。
左手の中で、嫌な音がした。
「がぁっ――! ぐ……!」
痛みに左肘が緩みかけた。
――引くな。
相馬はもう一度、腕を壁へ押しつけた。
厚手のゴム手袋に細かな皺が集まっている。
そのうち一本だけが白く伸びた。
裂けた。
中から青いニトリルが覗く。
まだ皮膚じゃない。
相馬は右手を戻した。
刃を入れる。
数センチ。
ざり、と織り糸が切れた。
人影が暴れ、左肩が壁から剥がされる。
相馬は自分からもう一度ぶつかった。
壁へ肩を打ちつける。
刃を押す。
裂け目が伸びる。
親指は曲がらず、人差し指の感覚も薄い。それでも手鉤はまだ落ちなかった。
白布がさらに締まった。
ニトリルが一枚裂ける。
少し遅れて、もう一枚。
最後の一枚が、指の付け根で裂けた。
手袋の中へ、ぬるいものが広がった。
相馬は確かめなかった。
左手はもう、掴むための手ではなかった。
あれをここへ留めておくための固定具。
人影が腕を跳ね上げた。
相馬の両足が床から離れる。
肩が壁を擦り、そのまま身体を床へ叩きつけられた。
喉から空気が漏れた。
左腕はまだ白布の中にある。
別の裾が首へ伸びる。
相馬は顎を引いた。
右手のカッターを、さっきの裂け目へ突っ込む。
人影が引いた。
――それを待っていた。
布が張る。
相馬は右腕を引いた。
刃が走った。
ざあっ、と長い音がした。
白布が二つに分かれた。
左腕の締めつけが消える。
相馬は身体ごと横へ転がる。
首へ来ていた裾が、床を打った。
そのまま壁際まで逃げ、振り向いた。
切り離された布片は床で二度跳ねた。三度目には端がわずかに浮いただけで、床へ落ちた。
動かない。
相馬は口から長く息を吐いた。
「……よし」
小さくすれば弱る。
左手を開こうとした。
開かなかった。
もう一度試すと、中指と薬指だけがわずかに伸び、握っていた手鉤が指の間から滑り落ちた。
からん。
手鉤が床を転がった。
「う……」
右手で拾い、左手の指を一本ずつ柄へ掛けたが、離すと手鉤はまた落ちた。
相馬は一度だけ左手を見た。
厚手のゴムは裂けていた。
その内側では、裂けた青いニトリルの下で指の付け根に血が溜まっている。
「ひどいな……治るのか? これは……」
思わず目を逸らした。
そのとき、靴を失った右足へ、冷たいものが触れた。
細い白布が、靴下の上へ乗っている。
相馬が右足を振ると、簡単に落ちた。
だが、布の擦れる音は止まらなかった。
相馬は床を見た。
さっき空けた玄関までの床を、細長い布片が這っている。
工具箱の横でも、白い端が持ち上がった。
小部屋の前。ゴミ袋の脇。壁際。
切り落としてきた布が、一枚ずつ動き始めていた。
相馬は玄関まで目を走らせた。
空けたはずの通路に、黄ばんだ切れ端が散っている。
顔を上げる。
正面では、切り残ったシーツが起き上がろうとしていた。
床へ広がった白地の中央へ折れ筋が集まり、肩になる。
その上に頭の膨らみができた。
黒褐色の染みが、胸から腹にかけて隆起する。
相馬は左手を垂らしたまま、右手のカッターを構えた。
足元で、また布が擦れた。
一歩、玄関側へ下がる。
靴のない右足の指に、細い白布が巻きついた。




