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しみ  作者: 大窟凱人


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8/9

増殖

 相馬は玄関から戻ると、工具箱を床へ置いた。

 小部屋のドアは閉じたままだった。

 さっきまで壁を叩き、床を這い、自分の首へ巻きついていたものが、その向こうで音ひとつ立てていない。


 玄関からの明るさはここまで届かず、窓の光が床の一部だけを白くしていた。壁際にはゴミ袋や段ボールが残り、玄関までの通り道にはみ出している。

 相馬はそれらの位置を確かめてからしゃがみ、工具箱を開いた。


 カッターの刃を折る。

 ぱきん。

 新しい刃を一段だけ出す。


 汚れたニトリルを外し、新しいニトリルを三枚重ね、その上から肘までの厚手のゴム手袋を引き上げた。指を握ると、四枚のゴムがきゅっと鳴った。

 これでは道具をうまく扱えないかもしれない。それでも、一枚たりとも脱ぐ気にはなれなかった。

 スクレーパーを腰の後ろへ差し、手鉤を左手に持った。


 小部屋の前には、さっきカッターで切り落としたシーツの一片が残っていた。

 相馬は近づかず、手鉤の先で布端を引っ掛けて裏返した。

 黄ばんだ白布が縮んだ。

 相馬の手が止まった。


 しばらく待つ。


 もう一度つついた。

 今度は端が数センチ持ち上がっただけで、すぐ床へ落ちた。

 鉤先を離しても追ってこない。

 相馬は布片を見下ろした。

 大きいから人間を持ち上げられる。

 小さくなれば弱る。

 なら、全部小さくすればいい。

 そう考えなければ、もう一度あの部屋へ入る気にはなれなかった。


 高橋を飲み込んでも消えなかった黒褐色は、小林の身体がベッドへ残した染みと同じ色だった。

 相馬は洗剤を溶かした水の容器を壁際へ置いた。

 使えるかどうかは分からない。

 試すなら、まず止めてからだ。


 倒れていたゴミ袋を足で押し退け、工具箱も壁際へ寄せた。

 段ボールと濡れた雑巾も、玄関までの動線から外す。

 何度も現場でやってきたように、相馬は玄関までの数メートルだけ床を空けた。


 視界の端で、小部屋のノブが動いた。


 相馬は床から目を切った。

 誰の手もないノブがゆっくり半回転する。

 かちり。

 扉の留めが外れた。


 ぎぃ……


 扉が五センチほど開いた。

 相馬はカッターを構えた。

 隙間の奥は暗い。

 そこへ、白いものが出てきた。


 最初に肩。

 続いて、頭の膨らみ。

 長く垂れた二本の腕。

 高橋を飲み込んだシーツが、人間の輪郭を保ったまま、身体を横にしてドアの隙間を抜けてくる。


 足もない裾が床を擦るだけなのに、一歩進むたび左右の肩が交互に上下した。

 相馬の左手が手鉤を強く握った。

 高橋が歩く時の動きだった。

 人影が部屋へ出切った。

 垂れた裾に押され、背後のドアがゆっくり戻っていく。

 相馬はその動きを見ていた。

 ドアが閉まる。

 かちり。


「……てめえ」


 人影が止まった。

 顔のない頭が傾く。

 相馬の喉の傷が、息を吸っただけでひりついた。


 頭は、人間なら首が折れる角度を越えても止まらず、布の膨らみが肩へ触れそうなところまで倒れた。

 次の瞬間、人の形が潰れた。


 肩も腕も一度に消え、白布が床へ広がる。

 相馬は手鉤を振り下ろした。


 遅い。


 鉤先が届くより早く、白布の縁が腰へぶつかった。

 足が床を離れ、次の瞬間には背中を打っていた。肺から空気が押し出される。


「ぐっ!」


 息を吸い直す間もなく足首が締まり、身体が引きずられた。背中のシャツが畳を擦り、寄せておいたゴミ袋が視界の端を流れていく。


 相馬は引きずられながら手鉤を振る。

 ――掛からない。

 鉤先が触れる直前に、そこだけ布が折れて潰れた。返すころには、別の縁がもう脛まで上がっている。

 手鉤では捕まえられない。


「くそっ」


 相馬はカッターを腰へ戻すと、スクレーパーを足首と白布の間へ押し込んだ。

 布が肉へ食い込み、金属の角まで足首へ当たる。

 体重を掛けて捻る。


 わずかに開いた。


 相馬はそこへ右の踵を押し込み、靴を脱いだ。

 片足が抜ける。

 横へ転がり、その勢いで立ち上がった。

 脱げた靴が、白布に包まれたまま壁へ叩きつけられた。


 白布がまた来た。

 横へかわしたが、右肩を打たれ、そのまま壁へぶつかった。

 白い面が胸へ押し寄せる。

 相馬はスクレーパーを割り込ませた。

 金属板ごと胸へ押し戻され、背骨が壁へ当たる。


「ぐ……はっ」


 白い縁が顎の下へ入り込んだ。

 相馬は首を縮め、スクレーパーを横にした。締めつけは金属板へ移ったが、柄がじりじりと喉へ迫ってくる。

 息を吸うたび、金属が皮膚を押した。右腕に力を込めても、震えるばかりで押し返せない。

 このまま受け続ければ潰される。


 相馬はスクレーパーを押し上げ、顎の下にできた隙間へ左肩をねじ込んだ。板を手放して白布の縁から身体を抜く。

 片膝をついた瞬間、裾が頬を打った。

 振り向いた時には、人影はもう立ち直っていた。


 相馬は息を止めた。

 手鉤では捕まらず、スクレーパーでは防ぐだけ。カッターを効かせるには、布を張らせるしかない。


 腰のカッターを右手で抜いた。

 こいつは、一度捕まえたものを離さない。高橋も、自分もそうだった。

 視線が左手へ落ちる。

 厚手のゴム。

 その下にニトリル三枚。

 相馬は指を握った。

 まだ動く。

 左腕を身体から離した。

 手鉤を握ったまま、前へ差し出す。

 人影の動きが止まった。

 顔のない頭が、左手へ向く。


「来いよ」


 一瞬、床の白布が縮んだ。

 次の瞬間には、左手首が締まっていた。


「っ!」


 身体ごと前へ引かれる。

 反射的に腕を引きかけた。

 止める。

 抜くな。

 白布が手首から前腕へ這い上がる。

 厚手のゴムが締まり、手袋の皺が消え、指の形まで分からなくなっていく。

 相馬は腕をさらに差し出した。


 食え。


 もっと食え。


 ここで止まれ。


 人影が強く引いた。

 一歩持っていかれる。

 相馬は二歩目を、自分から踏み込んだ。

 左肘を脇へ締め、巻きついてきた白布の内側で手鉤を返した。鉤先が布を捉える。人影が腕を引き、相馬の肩が前へ持っていかれた。


 白布が相馬を掴み、相馬も内側から白布を掴んでいた。

 右手のカッターを近づけた。


 届く。


 だが切りたい場所がまだたるんでいた。

 相馬は左腕ごと壁へ叩きつけた。

 肩の奥まで衝撃が走る。

 白布を前腕と壁の間へ挟み込むと、手鉤を支点に一部分だけが細く張った。


 そこだ。


 右手のカッターを入れる。

 刃先が織り目を捉えた。

 人影が身体を捻った。

 相馬の手首まで捻られ、刃が外れる。

 左手の中で、嫌な音がした。


「がぁっ――! ぐ……!」


 痛みに左肘が緩みかけた。

 ――引くな。

 相馬はもう一度、腕を壁へ押しつけた。

 厚手のゴム手袋に細かな皺が集まっている。

 そのうち一本だけが白く伸びた。

 裂けた。

 中から青いニトリルが覗く。

 まだ皮膚じゃない。

 相馬は右手を戻した。

 刃を入れる。

 数センチ。


 ざり、と織り糸が切れた。


 人影が暴れ、左肩が壁から剥がされる。

 相馬は自分からもう一度ぶつかった。

 壁へ肩を打ちつける。

 刃を押す。

 裂け目が伸びる。

 親指は曲がらず、人差し指の感覚も薄い。それでも手鉤はまだ落ちなかった。


 白布がさらに締まった。

 ニトリルが一枚裂ける。

 少し遅れて、もう一枚。

 最後の一枚が、指の付け根で裂けた。


 手袋の中へ、ぬるいものが広がった。

 相馬は確かめなかった。

 左手はもう、掴むための手ではなかった。

 あれをここへ留めておくための固定具。


 人影が腕を跳ね上げた。

 相馬の両足が床から離れる。

 肩が壁を擦り、そのまま身体を床へ叩きつけられた。

 喉から空気が漏れた。


 左腕はまだ白布の中にある。

 別の裾が首へ伸びる。

 相馬は顎を引いた。

 右手のカッターを、さっきの裂け目へ突っ込む。


 人影が引いた。


 ――それを待っていた。


 布が張る。

 相馬は右腕を引いた。

 刃が走った。

 ざあっ、と長い音がした。


 白布が二つに分かれた。


 左腕の締めつけが消える。

 相馬は身体ごと横へ転がる。

 首へ来ていた裾が、床を打った。

 そのまま壁際まで逃げ、振り向いた。


 切り離された布片は床で二度跳ねた。三度目には端がわずかに浮いただけで、床へ落ちた。

 動かない。

 相馬は口から長く息を吐いた。


「……よし」


 小さくすれば弱る。

 左手を開こうとした。

 開かなかった。

 もう一度試すと、中指と薬指だけがわずかに伸び、握っていた手鉤が指の間から滑り落ちた。


 からん。


 手鉤が床を転がった。


「う……」


 右手で拾い、左手の指を一本ずつ柄へ掛けたが、離すと手鉤はまた落ちた。

 相馬は一度だけ左手を見た。

 厚手のゴムは裂けていた。


 その内側では、裂けた青いニトリルの下で指の付け根に血が溜まっている。


「ひどいな……治るのか? これは……」


 思わず目を逸らした。


 そのとき、靴を失った右足へ、冷たいものが触れた。

 細い白布が、靴下の上へ乗っている。

 相馬が右足を振ると、簡単に落ちた。

 だが、布の擦れる音は止まらなかった。


 相馬は床を見た。

 さっき空けた玄関までの床を、細長い布片が這っている。

 工具箱の横でも、白い端が持ち上がった。

 小部屋の前。ゴミ袋の脇。壁際。

 切り落としてきた布が、一枚ずつ動き始めていた。

 相馬は玄関まで目を走らせた。

 空けたはずの通路に、黄ばんだ切れ端が散っている。


 顔を上げる。

 正面では、切り残ったシーツが起き上がろうとしていた。

 床へ広がった白地の中央へ折れ筋が集まり、肩になる。

 その上に頭の膨らみができた。


 黒褐色の染みが、胸から腹にかけて隆起する。

 相馬は左手を垂らしたまま、右手のカッターを構えた。

 足元で、また布が擦れた。


 一歩、玄関側へ下がる。

 靴のない右足の指に、細い白布が巻きついた。

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