始末
相馬はカッターを構えたまま、畳を見渡した。
切れば増える。
小部屋の前では大きな布が人の形に戻りかけ、切れ端は畳一面に散っていた。壁際に工具箱がある。手鉤とスクレーパーは使えるが、左手はもう動かせない。
「……現場を荒らすなよ」
足元で布が擦れた。一枚が這い始め、続いて別の一枚も動き出す。音が部屋中に広がった。
相馬は大きな布へ向かった。
まず大きいものからだ。
相馬はカッターを腰へ戻し、スクレーパーで迫る切れ端を払った。靴のない右足に一枚が乗る。振り落とした途端、正面の大きな布が人の形を潰し、床を走った。
工具箱へ跳び退き、スクレーパーを放して手鉤を拾う。布の端へ掛けて引いたが、片手では鉤を支えながらカッターを使えない。
相馬は工具箱の角に布を掛け、手鉤の柄を足で踏んだ。
布が張った。
カッターを抜いて切り込んだ瞬間、鉤が外れた。跳ねた布に刃を持つ腕を振られ、刃先が頬の横を通った。
「――っ」
白布が迫る。
相馬はカッターを置き、スクレーパーで布の端を押さえた。左足で柄を踏み、反対側に掛けた手鉤は右膝で固定する。
ようやく右手が空いた。
カッターを拾い、張った部分へ刃を入れる。
ざり、と織り糸が裂けた。
大きな布が二枚に分かれた。
細い切れ端が脛へ這い上がったが、蹴り落とす。
もう一枚が近づいてきた。
次の布も同じ方法で押さえ込んだ。両足で道具を固定し、張った布へカッターを近づけた瞬間、手鉤が跳ねた。
「っ!」
白布が右手首を強く打つ。骨に響く痛みで指が緩み、カッターの柄が滑りかけた。
右手まで使えなくなったら。
背後で畳が擦れた。
振り向くより早く、別の布が顔へ貼りついた。
「くっ!」
鼻も口も塞がれ、息を吸うほど布が密着する。相馬は右手のカッターを顔から遠ざけ、布との隙間へ腕をねじ込んだ。刃を迂闊に動かせば、自分の顔を切る。
肘を突き出すと、額の上で布が張った。
刃を当てる。織り糸が裂け、開いた隙間から畳が見えた。
相馬はそこへ頭を押し込み、布を引き裂いて抜け出した。
横へ転がり、立ち上がる。右手首は痺れたままだった。
次はどこだ。
切れ端は増え続けた。
一枚ずつなら弱い。だが、黄ばんだ布が畳を埋め、靴下やズボンの裾にまとわりつく。
相馬は足の置き場を失い、とうとう壁際へ追い詰められた。
正面では大きな布が人の形を捨て、横いっぱいに広がっている。
相馬は手鉤を振った。鉤先が端へ刺さる。だが白布は身を翻し、凄まじい力で相馬を引きずった。
左手は使えない。右手を離せば鉤を失う。踏ん張っても右足が畳を滑り、相馬は壁際へ体重を預けようとした。
踵が硬いものに当たった。
――これは。
さっき壁際に置いた、洗剤を溶かした水の容器だ。
相馬は踵で蹴り倒した。
水が畳へ広がり、白布の裾を濡らしていく。
手鉤を握る右腕が、ふっと軽くなった。
水を吸った布は灰色に沈み、相馬が引けば重そうについてくる。さっきまでの勢いがない。
ただし、黒褐色の染みだけは輪郭を失わなかった。
相馬は布に刺さった手鉤の柄尻を、腰と壁の間に挟んだ。体重を預けると、右手を離しても鉤はずれなかった。
布は張ったままだ。
カッターを取り、刃を当てる。
その瞬間、白布が引くのをやめた。
逆に相馬の方へ滑り寄り、刃先の前でたるんだ。
相馬は刃を止め、手鉤を外し、飛びかかってきた布を横へかわした。畳を叩いた端をスクレーパーで押さえ、右足で柄を踏む。
反対側の端を手鉤で引き伸ばす。左足でその柄を踏んだ。
両足の下で道具が軋んだ。
今度は布が暴れても外れない。
相馬は空いた右手でカッターを抜き、刃を走らせた。
ざり、と織り糸が裂ける。
二本の長い帯が畳へ落ちた。片方が脚へ巻きついたが、相馬が蹴り落とすと、もう身体を引き倒すほどの力はなかった。
切れば増える。
それでいい。
相馬は足に絡む切れ端だけを払い、大きな布を切り分け続けた。
危険なもの。邪魔になるもの。後でいいもの。
その順番だけは崩さない。
切るたびに床を這う布は増えたが、人を倒せる大きさのものは減っていく。
やがて、まとまった布は一枚だけになった。
座布団より少し大きい。黒褐色の染みを残したその布が、小部屋へ滑っていく。
相馬は追った。
逃げる布の端を右足で踏み、反対側へ手鉤を突き刺す。柄を左足で押さえると布が張り、右手が空いた。
相馬はカッターを握った。
黒褐色の染みが盛り上がった。
布の下から鼻の形が押し出される。
頬。
閉じた瞼。
口。
高橋だった。
刃先が、閉じた瞼の上で止まった。
玄関への道には、もう細い切れ端しか残っていない。相馬は右足の踵をわずかに浮かせた。
その瞬間、黒褐色の顔が跳ねた。
高橋の口が開き、カッターを握る右手へ食いついてくる。反射的に腕を引くと、指先すれすれで口が閉じた。
踏んでいた布が足の下で滑った。
相馬は右足を踏み直した。高橋の顔が畳へ押し戻される。左足にも体重をかけると、手鉤の柄が沈み、布が再び張った。
瞼が細くなり、鼻が歪む。引き伸ばされた口の端を見つめながら、相馬はカッターを握り直した。
「……すまん」
刃を額へ置く。
押し込む。
真下へ引いた。
額から口まで、黒褐色の顔が二つに裂けた。
ざり、と織り糸が切れた。
左右へ離れた布の間から、畳が見えた。
片側に残った瞼が崩れ、鼻の形も消える。口の皺もほどける。
もう顔ではなかった。
古いシーツに染みついた汚れが、左右へ残っているだけだった。
相馬はカッターを押しつけたまま待った。
刃を押し返す力はなかった。
右足を退ける。
布は畳に伏せたままだった。
左足を上げる。手鉤の柄が畳へ倒れた。
白布はぴくりともしない。
相馬は周囲を見た。
畳の上には白い切れ端が散っている。細長いもの。丸まったもの。足元まで這ってきていたもの。
どれも止まっていた。
一枚だけ、端が動いたように見えた。
カッターを構えた。
二度目はなかった。
畳の上に、古びた綿の切れ端があるだけだった。
右腕を下ろす。左手は身体の横に垂れたままだった。
指を動かそうとはしなかった。
部屋から、布の擦れる音が消えていた。
相馬はしばらく立っていた。
それから畳へ目を落とす。
白い切れ端の間には、片方だけの靴と手鉤が転がっていた。壁際には工具箱があり、畳には洗剤水がこぼれていた。
相馬は右手でカッターの刃を戻した。




