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しみ  作者: 大窟凱人


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9/9

始末

 相馬はカッターを構えたまま、畳を見渡した。


 切れば増える。


 小部屋の前では大きな布が人の形に戻りかけ、切れ端は畳一面に散っていた。壁際に工具箱がある。手鉤とスクレーパーは使えるが、左手はもう動かせない。


「……現場を荒らすなよ」


 足元で布が擦れた。一枚が這い始め、続いて別の一枚も動き出す。音が部屋中に広がった。

 相馬は大きな布へ向かった。


 まず大きいものからだ。


 相馬はカッターを腰へ戻し、スクレーパーで迫る切れ端を払った。靴のない右足に一枚が乗る。振り落とした途端、正面の大きな布が人の形を潰し、床を走った。

 工具箱へ跳び退き、スクレーパーを放して手鉤を拾う。布の端へ掛けて引いたが、片手では鉤を支えながらカッターを使えない。

 相馬は工具箱の角に布を掛け、手鉤の柄を足で踏んだ。


 布が張った。


 カッターを抜いて切り込んだ瞬間、鉤が外れた。跳ねた布に刃を持つ腕を振られ、刃先が頬の横を通った。


「――っ」


 白布が迫る。

 相馬はカッターを置き、スクレーパーで布の端を押さえた。左足で柄を踏み、反対側に掛けた手鉤は右膝で固定する。

 ようやく右手が空いた。

 カッターを拾い、張った部分へ刃を入れる。

 ざり、と織り糸が裂けた。

 大きな布が二枚に分かれた。


 細い切れ端が脛へ這い上がったが、蹴り落とす。


 もう一枚が近づいてきた。


 次の布も同じ方法で押さえ込んだ。両足で道具を固定し、張った布へカッターを近づけた瞬間、手鉤が跳ねた。


「っ!」


 白布が右手首を強く打つ。骨に響く痛みで指が緩み、カッターの柄が滑りかけた。


 右手まで使えなくなったら。


 背後で畳が擦れた。

 振り向くより早く、別の布が顔へ貼りついた。


「くっ!」


 鼻も口も塞がれ、息を吸うほど布が密着する。相馬は右手のカッターを顔から遠ざけ、布との隙間へ腕をねじ込んだ。刃を迂闊に動かせば、自分の顔を切る。

 肘を突き出すと、額の上で布が張った。


 刃を当てる。織り糸が裂け、開いた隙間から畳が見えた。

 相馬はそこへ頭を押し込み、布を引き裂いて抜け出した。

 横へ転がり、立ち上がる。右手首は痺れたままだった。

 次はどこだ。

 

 切れ端は増え続けた。

 一枚ずつなら弱い。だが、黄ばんだ布が畳を埋め、靴下やズボンの裾にまとわりつく。

 相馬は足の置き場を失い、とうとう壁際へ追い詰められた。

 正面では大きな布が人の形を捨て、横いっぱいに広がっている。

 相馬は手鉤を振った。鉤先が端へ刺さる。だが白布は身を翻し、凄まじい力で相馬を引きずった。

 左手は使えない。右手を離せば鉤を失う。踏ん張っても右足が畳を滑り、相馬は壁際へ体重を預けようとした。

 踵が硬いものに当たった。


 ――これは。


 さっき壁際に置いた、洗剤を溶かした水の容器だ。

 相馬は踵で蹴り倒した。

 水が畳へ広がり、白布の裾を濡らしていく。

 手鉤を握る右腕が、ふっと軽くなった。

 水を吸った布は灰色に沈み、相馬が引けば重そうについてくる。さっきまでの勢いがない。

 ただし、黒褐色の染みだけは輪郭を失わなかった。


 相馬は布に刺さった手鉤の柄尻を、腰と壁の間に挟んだ。体重を預けると、右手を離しても鉤はずれなかった。

 布は張ったままだ。

 カッターを取り、刃を当てる。

 その瞬間、白布が引くのをやめた。

 逆に相馬の方へ滑り寄り、刃先の前でたるんだ。


 相馬は刃を止め、手鉤を外し、飛びかかってきた布を横へかわした。畳を叩いた端をスクレーパーで押さえ、右足で柄を踏む。

 反対側の端を手鉤で引き伸ばす。左足でその柄を踏んだ。

 両足の下で道具が軋んだ。

 今度は布が暴れても外れない。

 相馬は空いた右手でカッターを抜き、刃を走らせた。


 ざり、と織り糸が裂ける。


 二本の長い帯が畳へ落ちた。片方が脚へ巻きついたが、相馬が蹴り落とすと、もう身体を引き倒すほどの力はなかった。

 切れば増える。

 それでいい。


 相馬は足に絡む切れ端だけを払い、大きな布を切り分け続けた。

 危険なもの。邪魔になるもの。後でいいもの。

 その順番だけは崩さない。


 切るたびに床を這う布は増えたが、人を倒せる大きさのものは減っていく。

 やがて、まとまった布は一枚だけになった。

 座布団より少し大きい。黒褐色の染みを残したその布が、小部屋へ滑っていく。

 相馬は追った。


 逃げる布の端を右足で踏み、反対側へ手鉤を突き刺す。柄を左足で押さえると布が張り、右手が空いた。

 相馬はカッターを握った。

 黒褐色の染みが盛り上がった。

 布の下から鼻の形が押し出される。

 頬。

 閉じた瞼。

 口。

 高橋だった。


 刃先が、閉じた瞼の上で止まった。


 玄関への道には、もう細い切れ端しか残っていない。相馬は右足の踵をわずかに浮かせた。

 その瞬間、黒褐色の顔が跳ねた。


 高橋の口が開き、カッターを握る右手へ食いついてくる。反射的に腕を引くと、指先すれすれで口が閉じた。

 踏んでいた布が足の下で滑った。


 相馬は右足を踏み直した。高橋の顔が畳へ押し戻される。左足にも体重をかけると、手鉤の柄が沈み、布が再び張った。

 瞼が細くなり、鼻が歪む。引き伸ばされた口の端を見つめながら、相馬はカッターを握り直した。


「……すまん」


 刃を額へ置く。

 押し込む。

 真下へ引いた。

 額から口まで、黒褐色の顔が二つに裂けた。

 ざり、と織り糸が切れた。

 左右へ離れた布の間から、畳が見えた。

 片側に残った瞼が崩れ、鼻の形も消える。口の皺もほどける。

 もう顔ではなかった。

 古いシーツに染みついた汚れが、左右へ残っているだけだった。

 相馬はカッターを押しつけたまま待った。

 刃を押し返す力はなかった。

 右足を退ける。

 布は畳に伏せたままだった。

 左足を上げる。手鉤の柄が畳へ倒れた。

 白布はぴくりともしない。


 相馬は周囲を見た。

 畳の上には白い切れ端が散っている。細長いもの。丸まったもの。足元まで這ってきていたもの。

 どれも止まっていた。

 一枚だけ、端が動いたように見えた。

 カッターを構えた。


 二度目はなかった。

 畳の上に、古びた綿の切れ端があるだけだった。

 右腕を下ろす。左手は身体の横に垂れたままだった。

 指を動かそうとはしなかった。


 部屋から、布の擦れる音が消えていた。

 相馬はしばらく立っていた。

 それから畳へ目を落とす。

 白い切れ端の間には、片方だけの靴と手鉤が転がっていた。壁際には工具箱があり、畳には洗剤水がこぼれていた。

 相馬は右手でカッターの刃を戻した。

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