決断
走った。
足がもつれ、廊下の壁へ肩をぶつけた。相馬はよろめきながらも踏みとどまり、壁に手をついて玄関へ向かった。
背後で何かが鳴った。
振り返らなかった。首筋に白布の感触が甦り、今にも背後から巻きついてくる気がした。左腕を振ると手首に痛みが走った。構わず走り続けた。
「くそっ……!」
玄関に辿り着き、靴へ足を突っ込む。踵が入らない。指をかけて履き直そうとしたものの、背後の廊下が気になって顔を上げた。
薄暗い廊下の奥は、ここからではよく見えなかった。
相馬は踵を踏み潰したまま玄関を飛び出した。
外の光が目に刺さる。
一瞬、視界が白くなった。相馬は片手で目元を庇いながら門を抜け、道路へ駆け出した。
踵を踏み潰した靴が、走る勢いで何度も抜けかかった。足裏で押さえつけるように走り続けるうち、肺が焼けるように苦しくなり、喉からひゅうひゅうと音が漏れ始めた。後ろに、まだ奴がいるような気がする。足を止めて確かめる勇気はなかった。
やがて息が続かなくなり、相馬は道路の端で足を止めた。
振り返る。
追ってくるものはない。
「はっ……はっ……」
膝へ手をつき、肩で息をした。汗が顎から落ち、灰色の舗装路に小さな染みを作った。
左手首には、まだ白布に締めつけられているような感触が残っている。首を動かすと筋肉が痛み、反射的に顎を引いてしまう。
しばらくそうしてから、ようやく顔を上げた。
三階建てのアパートが、何事もなかったように建っていた。窓には昼の光が反射し、建物の外壁には隣家の影が落ちている。あの部屋で白布が暴れていたことなど、外からは想像もできなかった。
遠くで車の走る音がした。
相馬はその音を聞きながら、ゆっくりと身体を起こした。
目の前には、いつもと変わらない道路がある。
あんな化け物が実在することなど、ここに立っていると嘘のようだった。
相馬はカッターを見下ろした。
刃は出たままだった。握り締めた指を開こうとしても、手が震えてうまく力を抜けない。刃先には白い糸屑が絡みつき、かすかな風に揺れていた。
危なかった。
あのスプレーが効かなければ、今頃どうなっていたか。
偶然、腰袋に薬剤が入っていた。あの布が水分を含むと動きを鈍らせることも、使ってみるまでは知らなかった。
運がよかっただけだ。
「……はぁっ」
相馬は大きく息を吐いた。
スマホは小部屋に置き去りだが、警察にはすでに連絡してある。あとは任せればいい。
そもそも、自分は清掃に来ただけなのだ。あんな化け物を相手にする義務などないし、カッター一本で戦い続けられるはずもない。
逃げたのは正しい判断だった。
もう戻らなくていい。
相馬は何度か呼吸を整え、ようやくカッターを持つ腕を下ろした。
「……助かった」
声に出すと、張りつめていたものが少し緩んだ。
相馬はアパートに背を向け、道路を歩き出した。
しかし、二歩進んだところで、ふと足が鈍った。
「……殺して?」
口から漏れた言葉に、相馬自身が立ち止まった。
あの声だ。
白布の内側から押し出されてきた顔。黒褐色の染みとは別の場所で、額が膨らみ、頬が張り、口の位置に窪みができていた。
その窪みが、確かに動いた。
『殺……して……』
相馬はアパートを振り返った。
白い布はどこにも見えない。開け放した玄関も、今いる場所からでは建物の陰になっていた。
あれは高橋だったのか。
もしそうなら、どうしてあんな姿になっていた?
相馬は記憶を辿った。
カッターで白布を切り裂いたとき、人影は激しく波打ち、形を保てなくなっていた。その直後、内側から人間の顔が現れた。
だが、声を絞り出した途端、黒褐色の染みが顔へ滑り込んできた。
そして、押し潰した。
相馬は眉を寄せた。
あれは、口を塞いだようにも見えた。
人間の顔に似せた罠だったのかもしれない。あの化け物が声を真似ただけという可能性もある。
だが、もし本当に高橋だったなら。
あいつは自分の意思で動いていたのか。
殺してくれと頼むほど苦しんでいるのに、その後も白布は相馬へ襲いかかろうとした。声を上げれば押し潰され、逃げることもできない。
自分の身体さえ、自由に動かせないのか。
小林が、あんなふうに高橋を使っているのだとしたら……
「……くそ」
相馬は道路へ向き直った。
関係ない。
今は自分の身を守ることが先だ。
相馬は再び歩き始めた。
踵を踏んだ右靴が、一歩ごとにずれる。足元を見ると、靴の縁が潰れ、靴下の踵が少し覗いていた。履き直そうとかがみかけたが、首に痛みが走ってやめた。
早く帰りたい。
身体を洗って、何か飲んで、横になりたかった。あの部屋で起きたことは二度と思い出したくない。だが、白布の内側に浮かび上がった人間の顔だけは、どうしても忘れられなかった。
相馬は足を緩めた。
高橋が先に犠牲になっていなければ、今頃あの白布の内側から助けを求めていたのは自分だったかもしれない。
相馬は立ち止まり、左手首を擦った。
自分と高橋に、どれほどの違いがあったというのか。
相馬がここに立っていられるのも、たまたま刃物を持っていて、たまたま薬剤が効いたからだ。
想像した途端、胃のあたりが冷たくなった。
相馬はアパートを見た。
帰ろうと思えば帰れる。
行きたい場所へ歩いていき、嫌なものから逃げられる。それがどれほどありがたいことなのか、今になって身に染みた。
だが、高橋には?
あの中にいるのが本当に高橋なら、あいつは逃げることも、助けを呼ぶこともできない。
何をするのか、いつまで苦しむのか。そんなことさえ自分で決められないのだとしたら。
「……ふざけんなよ」
相馬は小さく吐き捨てた。
腹の底に、鈍い怒りが湧いてきた。
殺してくれと頼むほど苦しんでいる人間を、まだ動かそうとする。声を上げれば押し潰し、抵抗することも許さない。
人間を何だと思っていやがる。
相馬は奥歯を噛み締めた。
高橋がまだ生きているのか、それはわからない。
まして、白布を切り裂くことが救いになるのかどうかも。
けれど、あの顔が現れた瞬間だけは、確かにあいつが何かを訴えているように見えた。
それを、あの布は押し潰したのだ。
「……くそったれが」
相馬は握っていたカッターを持ち上げた。
刃先には、まだ白い糸屑が絡んでいる。
あの布は切れた。
人影が大きく崩れ、もがくように床を波打った感触は覚えている。
もっと切っていたら、どうなっていただろう。
相馬はすぐに首を振った。
そんなことを考えても仕方がない。
スプレーはほとんど残っていない。次に捕まれば、今度こそ逃げられないかもしれない。カッターが通用したところで、あれを倒せる保証などどこにもなかった。
警察に任せるべきだ。
自分はもう十分にやった。
そう考えて、相馬は道路の先へ視線を移した。
歩いていけば、あのアパートは見えなくなる。
恐ろしい思いをすることもない。
それで終わりだ。
だが、足は動かなかった。
相馬はもう一度、背後の建物を見た。
警察が到着するまでに、あの布はどこかへ行ってしまっているかもしれない。次にあの顔が現れたとき、誰かがその声を聞けるかどうかもわからなかった。
相馬の指が、カッターの柄を強く握った。
怖かった。
あの玄関をもう一度くぐるところを想像しただけで、身体が強張った。白布に巻きつかれた感触が手首と首に甦り、呼吸が浅くなる。
戻りたくない。
死にたくない。
それでも、あの顔を思い出すたびに、恐怖とは別のものが腹の底から込み上げてきた。
相馬は目を閉じた。
このまま何もせずに立ち去るのか? 見捨てるのか? いいのか、それで?
「……くそっ!」
目を開けた。
三階建てのアパートが見える。
さっきまで必死に逃げてきた場所だ。
それを見上げながら、相馬はゆっくりと踵を返した。
踏み潰したままの靴が、今度はアパートへ向いた。
脚の震えは止まらなかった。
カッターを握り直し、刃先へ目を落とす。
白い糸屑が揺れている。
相馬はそれを指で払い落とした。
「片してやる」
来た道を戻り始めた。
アパートが近づくにつれて、また鼓動が速くなっていく。それでも、足は止めなかった。
「もう一度な」




