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しみ  作者: 大窟凱人


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5/9

切断

 スマホが相馬の手から抜け、フローリングに角を打ちつけて跳ねた。

 机の脚まで滑った画面から、相手が何度も相馬の名前を呼んでいる。


 あのシーツが入ってきていた。

 ドアの下から、折り重なった白布が押し込まれてくる。


 先に入った部分が床へ滑り、潰れていた折れ目を伸ばす。その上へ次の布が重なり、またほどける。

 布は机の脚を越え、本棚の前まで滑ってきた。小窓から差した午後の光の中へ、白濁と黒褐色が静かに広がっていく。


 まずい。ドアの下に隙間があることに気付いていなかった。


「待て……」


 来るんじゃねえ。

 相馬はドアまでの隙間を探した。

 一歩下がった腰が机の角に当たり、腰袋の中でスクレーパーとカッターが硬くぶつかった。

 そのあいだにも、布は入ってくる。

 最後に擦り切れた裾の縫い代がドアの下を抜けた。


 一枚……ベッド一台を覆うだけの大きさなのに、床の半分以上を塞いでいる。

 小窓の光に、古い綿布の細部まで見えた。洗濯で潰れた毛羽や黄ばんだ折れ筋が浮かび、縫い代からは一本の糸が出ている。

 死んだ人間が使っていた、ただのシーツ。

 その中央が膨らんだ。


「……っ」


 相馬の足が勝手に下がった。

 床へ寝ていた布が中央へ寄り、膝、腰と高さを増していく。両脇のたるみが垂れ下がって肩の位置を作り、そのまま人の背丈まで持ち上がった。


 頭から白布を被った人間。


 いや。


 人間の形を覚えた布。


 中には何も入っていない。頭に見える膨らみから白布が垂れているだけで、その奥には顔も胸板も脚もなかった。

 黒褐色の染みが揺れ、皺の谷と重なった一瞬だけ、俯いた顔に見えた。

 人影の右側で、折れ筋が一本消えた。


 相馬は息を止めた。


 人影の右肩から裾へ続く白布が細く絞られていく。余ったたるみが次々そこへ送り込まれ、縄ほどの太さになった。


 その先端が、相馬を向いた。


 白布が弾けた。


「うおっ!」


 相馬が横へ飛ぶと、一瞬前まで胸のあった場所を細長く絞られた布が走り、ばつん、と壁を打った。

 壁紙が裂け、その下の石膏ボードが白く露出した。

 相馬は机へ肩からぶつかった。

 痛みより先に振り返る。

 今度は人影の左肩から裾にかけて、白布が細く絞られ始めていた。


「っ……!」


 相馬は頭を抱えて沈んだ。白い帯がすぐ上を薙ぎ、背後で壁が鳴る。

 頬に何かが当たった。剥がれた壁紙だった。


 ――し、死ぬ。


 防護服が汗で背中に貼りついていた。

 相馬はしゃがんだまま人影を見た。

 白い帯が人型へ戻るあいだだけ、ドアまでの道が空いた。

 相馬は壁を蹴るように走ろうとした。


 ――だがその時、人影が潰れた。


「え」


 頭が落ち、肩が消え、胴まで床へ沈んだ。人間だった形が、一呼吸でなくなる。

 白布が中央へ折れ込み、さらにその上へ重なった。床の半分以上を塞いでいたシーツが、折られるたび幅を失っていく。

 最後には、座布団ほどの範囲に白布が厚く重なっていた。

 相馬がそれを理解する前に、重なった布が――跳んだ。


「っ!」


 黒と白濁が視界いっぱいに広がり、相馬はとっさに両腕を上げた。

 胸に衝撃。


「うがっ!」


 背中から壁へ叩きつけられた相馬の上で、折り重なった布がほどけ始めた。


 落ちながら白い面が相馬の身体へ広がり、右脚に絡んだ布が腿から腰へ回った。別の端が腕へ這い上がる。触れたところから布は細く絞られ、そのまま身体を巻き締めていった。


「や、やめろ! 放せ!」


 相馬が右腕を振るほど、白地はその腕へ巻きつき、肘を越えて肩口から首へ回り込んだ。

 とっさに右腕を跳ね上げ、前腕を喉の前へ突っ込んだ。

 直後、首の布が締まった。


「ぐおっ……!」


 右腕ごと喉へ押し込まれる。

 骨まで締められた。

 それでも前腕一本の厚みだけ、首に隙間が残った。

 相馬はそこから空気を吸った。


「はっ……! ふっ……はっ……」


 少ししか入らない。

 もう一度吸う。

 胸も締まった。

 途中で止まる。


「が……はっ……ぐ……ぐ……」


 腿から腰、腹、胸へ回った布が次々に縮んでいく。相馬が息を吐くたび、空いた分だけ白布が詰めてくる。

 息を吐ききれない。

 吸い直せない。

 相馬は床を踏んで身体を起こそうとした。だが、締まったシーツが身体を壁づたいに引き上げていく。


「あ!?」


 靴底が床を擦り、踏ん張ろうと伸ばしたつま先も、とうとう届かなくなった。


「なっ……」


 相馬が脚を振るたび白布が擦れ、巻きついた位置をずらしながら、さらに締まっていく。 

 右腕は喉を守ったまま動かせず、両脚は宙、胴も曲がらない。使えるのは左腕だけだった。

 そのとき、腹の締めつけが少し緩んだ。

 相馬は息を吸おうとした。が。


「……?」


 縄のように細くなっていた布が、腹の上で平たく戻り始めている。

 白地は五センチ、十センチと幅を増しながら防護服へ貼りつき、胸に巻きついていた別の帯まで平たく広がっていく。

 捕まえるために細くなった布が、相馬の身体を覆い直している。

 腹が冷たくなった。

 相馬はそこを見た。

 白かった防護服に黒褐色が滲み、毛羽立った繊維が一本ずつシーツへ沈んでいく。

 相馬の呼吸が止まった。


 ――高橋。


 あいつも、全身を包まれ、黒い染みだけ残して消えた。


「い、嫌だ!!!」


 腹を覆う白地が脇腹まで広がり、そのまま背中へ回ろうとしている。


「う……あぁ……」


 次は服じゃない。これが身体に触れたら……


「――っ!!!」


 相馬は身体を振った。

 首が締まった。


「おぇっ!」


 右腕と喉の隙間が狭くなる。

 首が締まり、チカチカと目の前に細かな光が散った。


 死……ぬ……


 なんとかしようと、腰袋に手を伸ばした。

 布と身体の隙間へ指を押し込む。

 いつもなら見ずに取り出せるカッターが見つからない。指先は刷毛、スクレーパーに触れるばかりだった。

 首の布が右腕へ食い込む。

 小指の感覚がない。

 腹では、防護服の黒い部分が手のひらほどになっていた。

 相馬は腰袋の奥へ指を突っ込んだ。

 薄い樹脂の角が指先に当たる。


 カッターだ。


 掴んで引く。

 巻きついた布へ柄が引っかかった。


「ち……! とれ……ろ……!」


 もう一度強く引くと抜けた。

 相馬は震える親指をスライダーへ置き――押し込む。


 カチッ。


 刃が出た。

 相馬は左手を首元へ上げた。

 細く張った布の内側には右前腕があり、その奥に自分の喉がある。

 刃先が揺れた。


「はぁ……はぁ……」


 右腕を切らないよう少し外へずらし、布と防護服の間へ差し込んだ。

 ざり。

 古い綿を切る感触と同時に、シーツ全体が跳ね、腹を覆う白地が縮んだ。

 相馬はもう一度刃を引いた。

 ざりっ。

 織り糸がまとめて切れた。

 首の布が弾けた。


「はっ――」


 空気が喉へ入った。


「ごほっ!!」


 相馬は咳き込みながら、右腕へ巻きついた残りの布に刃を当てた。


「切れろ……!」


 白布がびくりと縮んだ。

 次の瞬間、相馬の身体を巻き締めていた布が一斉に緩み、首から胸、腰へと滑り落ちた。脚を縛っていた部分もほどけ、腹に広がって吸収を始めていた白地まで、防護服から引き剥がされるように離れていく。


「うわっ!」


 支えを失った相馬は、膝から床へ落ちた。


「げほっ……げほっ!」


 咳が止まらない。

 唾液が床へ落ちた。

 相馬はそれでも息を吸った。


 ――奴は?


 顔を上げる。

 シーツは部屋の反対側まで退いていた。

 床へ低く広がったまま、すぐには襲ってこない。

 切れたところだけが震えていた。


 こいつ……


 切断面へ皺が一本寄り、それに引かれるようにもう一本、周囲の折れ筋まで集まってきた。白布は傷口を隠すように、そこだけ厚く折り重なる。


 相馬が刃を向けると、シーツが床を擦ってわずかに下がった。

 白布はその距離を保ったまま中央へ寄り、ゆっくりと持ち上がった。膝から腰、肩へと高さを増し、最後に頭の膨らみを作る。


 また人間の形になった。

 顔の位置で黒褐色の染みが揺れ、こちらを見ているが、向かってはこない。

 相馬は荒い息を繰り返しながら、自分の腹を見下ろした。


 防護服は、広く覆われていたところほど黒く、表面が薄く削れて下の服の色が透けている。首や腕に細く巻きついていた場所には、黒い筋が残っているだけだった。

 刃先には、白い糸屑が絡んでいた。


 ……これなら、もしかしたら。


 相馬は震える手で、いつものカッターを握り直した。

 もう一度、人影へ刃を向ける。

 だが、今度は退かなかった。


 顔の位置で黒褐色の染みが揺れている。

 切り口をかばうように重なっていた布が、ゆっくりと開いていった。

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