切断
スマホが相馬の手から抜け、フローリングに角を打ちつけて跳ねた。
机の脚まで滑った画面から、相手が何度も相馬の名前を呼んでいる。
あのシーツが入ってきていた。
ドアの下から、折り重なった白布が押し込まれてくる。
先に入った部分が床へ滑り、潰れていた折れ目を伸ばす。その上へ次の布が重なり、またほどける。
布は机の脚を越え、本棚の前まで滑ってきた。小窓から差した午後の光の中へ、白濁と黒褐色が静かに広がっていく。
まずい。ドアの下に隙間があることに気付いていなかった。
「待て……」
来るんじゃねえ。
相馬はドアまでの隙間を探した。
一歩下がった腰が机の角に当たり、腰袋の中でスクレーパーとカッターが硬くぶつかった。
そのあいだにも、布は入ってくる。
最後に擦り切れた裾の縫い代がドアの下を抜けた。
一枚……ベッド一台を覆うだけの大きさなのに、床の半分以上を塞いでいる。
小窓の光に、古い綿布の細部まで見えた。洗濯で潰れた毛羽や黄ばんだ折れ筋が浮かび、縫い代からは一本の糸が出ている。
死んだ人間が使っていた、ただのシーツ。
その中央が膨らんだ。
「……っ」
相馬の足が勝手に下がった。
床へ寝ていた布が中央へ寄り、膝、腰と高さを増していく。両脇のたるみが垂れ下がって肩の位置を作り、そのまま人の背丈まで持ち上がった。
頭から白布を被った人間。
いや。
人間の形を覚えた布。
中には何も入っていない。頭に見える膨らみから白布が垂れているだけで、その奥には顔も胸板も脚もなかった。
黒褐色の染みが揺れ、皺の谷と重なった一瞬だけ、俯いた顔に見えた。
人影の右側で、折れ筋が一本消えた。
相馬は息を止めた。
人影の右肩から裾へ続く白布が細く絞られていく。余ったたるみが次々そこへ送り込まれ、縄ほどの太さになった。
その先端が、相馬を向いた。
白布が弾けた。
「うおっ!」
相馬が横へ飛ぶと、一瞬前まで胸のあった場所を細長く絞られた布が走り、ばつん、と壁を打った。
壁紙が裂け、その下の石膏ボードが白く露出した。
相馬は机へ肩からぶつかった。
痛みより先に振り返る。
今度は人影の左肩から裾にかけて、白布が細く絞られ始めていた。
「っ……!」
相馬は頭を抱えて沈んだ。白い帯がすぐ上を薙ぎ、背後で壁が鳴る。
頬に何かが当たった。剥がれた壁紙だった。
――し、死ぬ。
防護服が汗で背中に貼りついていた。
相馬はしゃがんだまま人影を見た。
白い帯が人型へ戻るあいだだけ、ドアまでの道が空いた。
相馬は壁を蹴るように走ろうとした。
――だがその時、人影が潰れた。
「え」
頭が落ち、肩が消え、胴まで床へ沈んだ。人間だった形が、一呼吸でなくなる。
白布が中央へ折れ込み、さらにその上へ重なった。床の半分以上を塞いでいたシーツが、折られるたび幅を失っていく。
最後には、座布団ほどの範囲に白布が厚く重なっていた。
相馬がそれを理解する前に、重なった布が――跳んだ。
「っ!」
黒と白濁が視界いっぱいに広がり、相馬はとっさに両腕を上げた。
胸に衝撃。
「うがっ!」
背中から壁へ叩きつけられた相馬の上で、折り重なった布がほどけ始めた。
落ちながら白い面が相馬の身体へ広がり、右脚に絡んだ布が腿から腰へ回った。別の端が腕へ這い上がる。触れたところから布は細く絞られ、そのまま身体を巻き締めていった。
「や、やめろ! 放せ!」
相馬が右腕を振るほど、白地はその腕へ巻きつき、肘を越えて肩口から首へ回り込んだ。
とっさに右腕を跳ね上げ、前腕を喉の前へ突っ込んだ。
直後、首の布が締まった。
「ぐおっ……!」
右腕ごと喉へ押し込まれる。
骨まで締められた。
それでも前腕一本の厚みだけ、首に隙間が残った。
相馬はそこから空気を吸った。
「はっ……! ふっ……はっ……」
少ししか入らない。
もう一度吸う。
胸も締まった。
途中で止まる。
「が……はっ……ぐ……ぐ……」
腿から腰、腹、胸へ回った布が次々に縮んでいく。相馬が息を吐くたび、空いた分だけ白布が詰めてくる。
息を吐ききれない。
吸い直せない。
相馬は床を踏んで身体を起こそうとした。だが、締まったシーツが身体を壁づたいに引き上げていく。
「あ!?」
靴底が床を擦り、踏ん張ろうと伸ばしたつま先も、とうとう届かなくなった。
「なっ……」
相馬が脚を振るたび白布が擦れ、巻きついた位置をずらしながら、さらに締まっていく。
右腕は喉を守ったまま動かせず、両脚は宙、胴も曲がらない。使えるのは左腕だけだった。
そのとき、腹の締めつけが少し緩んだ。
相馬は息を吸おうとした。が。
「……?」
縄のように細くなっていた布が、腹の上で平たく戻り始めている。
白地は五センチ、十センチと幅を増しながら防護服へ貼りつき、胸に巻きついていた別の帯まで平たく広がっていく。
捕まえるために細くなった布が、相馬の身体を覆い直している。
腹が冷たくなった。
相馬はそこを見た。
白かった防護服に黒褐色が滲み、毛羽立った繊維が一本ずつシーツへ沈んでいく。
相馬の呼吸が止まった。
――高橋。
あいつも、全身を包まれ、黒い染みだけ残して消えた。
「い、嫌だ!!!」
腹を覆う白地が脇腹まで広がり、そのまま背中へ回ろうとしている。
「う……あぁ……」
次は服じゃない。これが身体に触れたら……
「――っ!!!」
相馬は身体を振った。
首が締まった。
「おぇっ!」
右腕と喉の隙間が狭くなる。
首が締まり、チカチカと目の前に細かな光が散った。
死……ぬ……
なんとかしようと、腰袋に手を伸ばした。
布と身体の隙間へ指を押し込む。
いつもなら見ずに取り出せるカッターが見つからない。指先は刷毛、スクレーパーに触れるばかりだった。
首の布が右腕へ食い込む。
小指の感覚がない。
腹では、防護服の黒い部分が手のひらほどになっていた。
相馬は腰袋の奥へ指を突っ込んだ。
薄い樹脂の角が指先に当たる。
カッターだ。
掴んで引く。
巻きついた布へ柄が引っかかった。
「ち……! とれ……ろ……!」
もう一度強く引くと抜けた。
相馬は震える親指をスライダーへ置き――押し込む。
カチッ。
刃が出た。
相馬は左手を首元へ上げた。
細く張った布の内側には右前腕があり、その奥に自分の喉がある。
刃先が揺れた。
「はぁ……はぁ……」
右腕を切らないよう少し外へずらし、布と防護服の間へ差し込んだ。
ざり。
古い綿を切る感触と同時に、シーツ全体が跳ね、腹を覆う白地が縮んだ。
相馬はもう一度刃を引いた。
ざりっ。
織り糸がまとめて切れた。
首の布が弾けた。
「はっ――」
空気が喉へ入った。
「ごほっ!!」
相馬は咳き込みながら、右腕へ巻きついた残りの布に刃を当てた。
「切れろ……!」
白布がびくりと縮んだ。
次の瞬間、相馬の身体を巻き締めていた布が一斉に緩み、首から胸、腰へと滑り落ちた。脚を縛っていた部分もほどけ、腹に広がって吸収を始めていた白地まで、防護服から引き剥がされるように離れていく。
「うわっ!」
支えを失った相馬は、膝から床へ落ちた。
「げほっ……げほっ!」
咳が止まらない。
唾液が床へ落ちた。
相馬はそれでも息を吸った。
――奴は?
顔を上げる。
シーツは部屋の反対側まで退いていた。
床へ低く広がったまま、すぐには襲ってこない。
切れたところだけが震えていた。
こいつ……
切断面へ皺が一本寄り、それに引かれるようにもう一本、周囲の折れ筋まで集まってきた。白布は傷口を隠すように、そこだけ厚く折り重なる。
相馬が刃を向けると、シーツが床を擦ってわずかに下がった。
白布はその距離を保ったまま中央へ寄り、ゆっくりと持ち上がった。膝から腰、肩へと高さを増し、最後に頭の膨らみを作る。
また人間の形になった。
顔の位置で黒褐色の染みが揺れ、こちらを見ているが、向かってはこない。
相馬は荒い息を繰り返しながら、自分の腹を見下ろした。
防護服は、広く覆われていたところほど黒く、表面が薄く削れて下の服の色が透けている。首や腕に細く巻きついていた場所には、黒い筋が残っているだけだった。
刃先には、白い糸屑が絡んでいた。
……これなら、もしかしたら。
相馬は震える手で、いつものカッターを握り直した。
もう一度、人影へ刃を向ける。
だが、今度は退かなかった。
顔の位置で黒褐色の染みが揺れている。
切り口をかばうように重なっていた布が、ゆっくりと開いていった。




