孤独
相馬は背中でドアを押さえたまま鍵を閉め、耳を澄ませた。
マスクの中で、自分の呼吸だけがやけに大きい。吸うたびフィルターが湿った音を立て、吐いた息がぬるく頬へ戻ってくる。
それ以外は、静寂。
ドアは動かず、布の擦れる音もしなかった。
大丈夫……か?
右手の人差し指と中指には、高橋の首が折れた感触がまだ残っていた。
「……ありえない」
シーツの下で高橋の身体がなくなった。最後には靴まで消えた。
だが、また復活した。
相馬はドアを見た。
まだ向こうは静かだった。
そこで初めて、背中をドアから離した。
膝から力が抜け、ふらふらと低い机へ片手をつく。
小部屋は、四畳半もない部屋だった。
古紙と埃、カビの臭いがこもっている。
奥の小窓は新聞紙で塞がれ、継ぎ目からだけ昼の光が差していた。
相馬は顔を上げた。
「なんだ、この部屋……」
壁が黒ずんでいた。いや、汚れじゃない。文字だ。
近づいて、ひとつ読めた。
さびしい。
その横にもある。
さびしい。
下にも。
さびしい。
そこでようやく、相馬は壁全体を見た。
天井際から床際まで、隙間なく同じ言葉が書かれている。
さびしい。さびしい。さびしい。さびしい。さびしい。
大きな字。潰れた字。斜めになった字。途中からひどく筆圧が強くなり、黒い線の下で壁紙が裂けているものもある。
いったいどれだけ……何時間、何日だ?
いや。
何年、ここでこれを……?
思わず視線を外した。
さびしい。さびしい。さびしい。
「う……やめてくれ」
口にしてから、自分が誰に言ったのか分からなかった。
壁には別の言葉も混じっていた。
「だれもこない」「どうして」「ゆるさない」「なんで」「おれだけ」
だが、どの言葉の隙間にも、また同じ四文字が入り込んでいる。
さびしい。
中にはもう、ぐちゃぐちゃになっていて読めない文字も、たくさんあった。
視線をずらす。
日に焼けた本の中で、一冊だけ黄色い付箋が何十枚も突き出していた。
その時、ドアの向こうで、さら、と音がした。
相馬は振り返った。
静かだが……奴はいる。
今はこんなこと考えている場合じゃない。逃げるぞ。
小窓へ行き、貼りつけられた新聞紙をまとめて剥がした。
糊がぱりぱりと裂け、昼の光が一気に入った。
錠を外す。
窓が開いた。
外気がマスクへ当たる。
「よし、これで――」
身を乗り出しかけて、止まった。
「……は?」
窓の外に面格子があった。ここは三階。転落防止用の柵だろうか。鉄でできていて、表面は黒く変色している。
「嘘だろ。勘弁しろよ」
両手で掴んで、力いっぱい引く、揺さぶる。
動かない。
「――っ!! 外れろよ!」
何度やっても鉄柵はビクともしない。
体重を掛けても、古い鉄が小さく軋むだけだった。剥がれた錆が手袋へつく。こんなことなら、筋トレの一つでもやっておけばよかった。
「くそ……」
三階下には道路が見える。
車が走っている。
向かいの建物では洗濯物が揺れ、室外機が回っていた。
前籠から長ネギを一本突き出した自転車の女が近づいてくる。
「すいません!」
相馬は格子を叩いた。
「助けてください! 誰か呼んで!」
女が顔を上げた。
相馬は手を柵から出して大きく振った。
しかし、クラクションの音が鳴り響いた。後方から走ってきた車だ。
女は慌てて道路の端へ寄った。そしてそのまま通り過ぎた車に隠れ、また姿が見えた時には彼女も走り去っていた。
「おい!」
相馬の声だけが外へ落ちた。
また車が通る。
向かいの家の洗濯物が風に揺れている。
人気のない平日の昼だった。
相馬は格子から手を離した。
スマホを出す。
手袋では指紋認証が通らず、暗証番号も一度間違えた。
ようやく電話がかかる。
『一一〇番です。事件ですか、事故ですか』
「事件です。人が殺されました」
『場所を教えてください』
住所を告げてから、
「三階、三〇二……違う、三〇三です。特殊清掃で入ってました」
『三〇三号室ですね。今も犯人はそこにいますか』
相馬はドアを見た。
「います」
『あなたは犯人から離れていますか』
「隣の部屋に逃げました。鍵をかけてます」
『分かりました。警察官を向かわせています。そのまま安全な場所にいてください』
その言葉を聞いて、ようやく相馬は息を吐いた。
『犯人は何人ですか。特徴を教えてください』
「……人じゃない」
『人ではない?』
「シーツです」
一瞬、向こうが黙った。
『白いシーツをかぶった人物ですか』
「違います」
相馬は自分でも何を言っているのか分からなくなった。
「シーツそのものです。白いシーツが高橋の首に巻きついて、首が折れて、それから……」
『高橋さんは今、そこに倒れていますか』
「いません」
『逃げたということですか』
「違う。消えたんです。身体も、服も、靴も全部――」
声が止まった。
振り返ると、ドアの下が白い。
隙間から入り込んだ布が、すでに床の中央まで広がっていた。
『もしもし?』
白い面が、音もなく伸びてくる。
黒い染みまで、ドアの下をくぐった。
相馬は、スマホをその場に落とした。




