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しみ  作者: 大窟凱人


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4/9

孤独

 相馬は背中でドアを押さえたまま鍵を閉め、耳を澄ませた。

 マスクの中で、自分の呼吸だけがやけに大きい。吸うたびフィルターが湿った音を立て、吐いた息がぬるく頬へ戻ってくる。

 それ以外は、静寂。

 ドアは動かず、布の擦れる音もしなかった。


 大丈夫……か?


 右手の人差し指と中指には、高橋の首が折れた感触がまだ残っていた。


「……ありえない」


 シーツの下で高橋の身体がなくなった。最後には靴まで消えた。

 だが、また復活した。

 相馬はドアを見た。

 まだ向こうは静かだった。

 そこで初めて、背中をドアから離した。

 膝から力が抜け、ふらふらと低い机へ片手をつく。

 小部屋は、四畳半もない部屋だった。

 古紙と埃、カビの臭いがこもっている。

 奥の小窓は新聞紙で塞がれ、継ぎ目からだけ昼の光が差していた。

 相馬は顔を上げた。


「なんだ、この部屋……」


 壁が黒ずんでいた。いや、汚れじゃない。文字だ。

 近づいて、ひとつ読めた。

 さびしい。

 その横にもある。

 さびしい。

 下にも。

 さびしい。

 そこでようやく、相馬は壁全体を見た。

 天井際から床際まで、隙間なく同じ言葉が書かれている。


 さびしい。さびしい。さびしい。さびしい。さびしい。


 大きな字。潰れた字。斜めになった字。途中からひどく筆圧が強くなり、黒い線の下で壁紙が裂けているものもある。

 いったいどれだけ……何時間、何日だ?

 いや。

 何年、ここでこれを……?

 思わず視線を外した。


 さびしい。さびしい。さびしい。


「う……やめてくれ」


 口にしてから、自分が誰に言ったのか分からなかった。

 壁には別の言葉も混じっていた。


「だれもこない」「どうして」「ゆるさない」「なんで」「おれだけ」


 だが、どの言葉の隙間にも、また同じ四文字が入り込んでいる。


 さびしい。


 中にはもう、ぐちゃぐちゃになっていて読めない文字も、たくさんあった。

 視線をずらす。

 日に焼けた本の中で、一冊だけ黄色い付箋が何十枚も突き出していた。

 その時、ドアの向こうで、さら、と音がした。

 相馬は振り返った。


 静かだが……奴はいる。

 今はこんなこと考えている場合じゃない。逃げるぞ。


 小窓へ行き、貼りつけられた新聞紙をまとめて剥がした。

 糊がぱりぱりと裂け、昼の光が一気に入った。

 錠を外す。

 窓が開いた。

 外気がマスクへ当たる。


「よし、これで――」


 身を乗り出しかけて、止まった。


「……は?」

 

 窓の外に面格子があった。ここは三階。転落防止用の柵だろうか。鉄でできていて、表面は黒く変色している。


「嘘だろ。勘弁しろよ」


 両手で掴んで、力いっぱい引く、揺さぶる。

 動かない。


「――っ!! 外れろよ!」


 何度やっても鉄柵はビクともしない。

 体重を掛けても、古い鉄が小さく軋むだけだった。剥がれた錆が手袋へつく。こんなことなら、筋トレの一つでもやっておけばよかった。


「くそ……」


 三階下には道路が見える。

 車が走っている。

 向かいの建物では洗濯物が揺れ、室外機が回っていた。

 前籠から長ネギを一本突き出した自転車の女が近づいてくる。


「すいません!」


 相馬は格子を叩いた。


「助けてください! 誰か呼んで!」


 女が顔を上げた。

 相馬は手を柵から出して大きく振った。

 しかし、クラクションの音が鳴り響いた。後方から走ってきた車だ。

 女は慌てて道路の端へ寄った。そしてそのまま通り過ぎた車に隠れ、また姿が見えた時には彼女も走り去っていた。


「おい!」


 相馬の声だけが外へ落ちた。

 また車が通る。

 向かいの家の洗濯物が風に揺れている。

 人気のない平日の昼だった。

 相馬は格子から手を離した。


 スマホを出す。

 手袋では指紋認証が通らず、暗証番号も一度間違えた。

 ようやく電話がかかる。


『一一〇番です。事件ですか、事故ですか』


「事件です。人が殺されました」


『場所を教えてください』


 住所を告げてから、


「三階、三〇二……違う、三〇三です。特殊清掃で入ってました」


『三〇三号室ですね。今も犯人はそこにいますか』


 相馬はドアを見た。


「います」


『あなたは犯人から離れていますか』


「隣の部屋に逃げました。鍵をかけてます」


『分かりました。警察官を向かわせています。そのまま安全な場所にいてください』


 その言葉を聞いて、ようやく相馬は息を吐いた。


『犯人は何人ですか。特徴を教えてください』


「……人じゃない」


『人ではない?』


「シーツです」


 一瞬、向こうが黙った。


『白いシーツをかぶった人物ですか』


「違います」


 相馬は自分でも何を言っているのか分からなくなった。


「シーツそのものです。白いシーツが高橋の首に巻きついて、首が折れて、それから……」


『高橋さんは今、そこに倒れていますか』


「いません」


『逃げたということですか』


「違う。消えたんです。身体も、服も、靴も全部――」


 声が止まった。

 振り返ると、ドアの下が白い。

 隙間から入り込んだ布が、すでに床の中央まで広がっていた。


『もしもし?』


 白い面が、音もなく伸びてくる。

 黒い染みまで、ドアの下をくぐった。

 相馬は、スマホをその場に落とした。

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