消失
「……なあ」
「はい」
「見えてるよな」
「み、見えてます」
相馬は腰へ手をやった。
スプレーとカッターは、いつもの位置。
指を掛けると、手の震えが少しだけ収った。
玄関までは七、八歩だった。相馬はその距離を確認し、
「高橋」
「はい」
「お……俺があれ見とくから。お前、玄関」
高橋はうなずき、一歩下がった。さらにもう一歩、二歩後退する。シーツは立ったまま、まだ動かない。
「相馬さん」
「え?」
「あれ……なんか……俺のほう――」
言い終わる前に、シーツの端が走った。
高橋の首へ巻きつく。
「ぐっ――」
顎を突き上げられた高橋がよろめき、踏ん張った靴底が畳を擦った。さらに別の端が腰へ回り、胸を横切って片腕を胴へ縛りつける。防護服が脇の下で引き攣れ、もう一方の端が腿に絡みついたところで、高橋はほとんど身動きが取れなくなった。
「高橋!」
相馬は首の布を両手で引いた。洗い古した綿のざらつきが指に当たる。
力を込めるが、びくともしない。
高橋が鼻から息を吸った。
もう一度吸おうとして、喉の奥から細い笛の音が洩れた。マスクが口元へ吸いつき、頬が赤黒くなっていく。高橋は顎を左右に振り、布の巻きついていない場所を探しているようだったが、動かすたびに首を締める皺が細く寄っていった。
「離せこの……!」
相馬は腰のカッターへ手を伸ばす。
そのとき、高橋の顎がぐいと跳ね上がった。
相馬はカッターを抜くより先に、首と布の間へ二本の指をねじ込んだ。だが、布はその指ごと高橋の喉へ食い込んでくる。
高橋の手が痙攣しながら相馬の腕を探った。
指先が防護服の袖を掴む。いったん滑り落ち、もう一度掴んだ。
「相馬、さん……」
「待ってろ! 今、外すから!」
「お……ぁ……」
高橋の目が相馬を見た。白目の細い血管が浮き、目尻から溢れた涙がこめかみへ流れた。
相馬は布の縁へ指を掛け直し、膝を使って身体ごと引いた。
布がさらに締まった。
――ボキッ。
引いていた指先に、硬いものがずれる感触が伝わった。
「かっ」と小さい声。
高橋の頭が右肩へ落ちる。
相馬の袖を握っていた指がほどけた。
首を締めていた布がゆるみ、するすると離れた。
高橋の身体が畳へ倒れる。肩から落ちた頭が一度跳ね、防護服の袖が不自然な方向へ折れ曲がった。
「た、高橋!」
相馬が近づこうとしたとき、黒いシーツが高橋の足元へ広がった。
裾が靴先にかかり、そのまま脚を覆っていく。膝、腹、胸。布は高橋の身体の起伏を拾いながら、ゆっくり頭まで進んだ。
覆い終えたところで、動きが止まった。
相馬は息を殺した。
シーツの下には、仰向けになった高橋の輪郭があった。胸から腹へ続く緩やかな盛り上がり。腰の両側に伸びる腕。少し離れた二つの靴先。
その胸の高さが、わずかに下がった。
相馬は目を凝らした。
もう一度、下がる。
胸を覆っていた布に細かな皺が寄り、その皺が腹へ向かってゆっくり滑っていった。防護服の膨らみが失われ、肘の位置にできていた角も丸くなっていく。
畳に接している布の裾は動いていない。
中の高橋だけが、薄くなっていた。
膝の高さが失われた。太腿から足首へ続いていた緩やかな起伏が低くなり、両足の靴先も、押し潰されるように平たくなった。
頭だけが残っていた。
額の丸みから鼻筋へ、そして顎へと続く形が、黒褐色の布を内側から持ち上げている。
鼻筋が低くなっていく。
顎が沈む。
最後に後頭部の丸みが失われ、支えをなくした布が畳へ落ちた。
ぺたり、と湿った音がした。
相馬は、布の端から靴がはみ出していないか探した。
何もなかった。
靴も、防護服も、身体もない。
黒褐色の染みの脇に、新しい湿りが広がっていた。
沈黙。
お……終わった……のか?
相馬がそう思った瞬間、畳に落ちていたシーツの中央が持ち上がった。
「ひっ」
さっき高橋の頭が消えたあたりだった。
布の下に丸い膨らみができ、それがゆっくり高くなる。頭ほどの大きさになったところで、その両側が持ち上がり、肩の幅が生まれた。
続いて胸がせり上がった。
畳の上に広がっていた布が引き寄せられ、垂直に皺を作っていく。腕にあたる二本の膨らみが左右へ伸び、裾の下には二本の脚の位置ができた。
黒褐色の布が頭から垂れ、額と鼻筋に沿って張りついている。口元には浅い窪みがあり、顎の下から細かな皺が幾筋も垂れていた。
相馬はその背丈を見ていた。
高橋と同じだった。
人影の右腕が上がった。
布の内側から手のひらが押し当てられ、五本の指が浮き上がった。指の間に布が落ち込み、一本一本の形がはっきり見えた。
そして、人影の頭がこちらを向いた。
「あ……あ……」
見られた。認識された。次は……俺?
相馬は自分の右手を見た。
高橋の首へ差し込んだ二本の指が、まだ曲がったままになっている。伸ばそうとすると、さっきの硬い感触が戻ってきた。
数歩先の磨りガラスが昼の光で白く光っている。玄関までの畳には何も落ちていない。走れば届く。
相馬は駆け出した。
――二歩目だった。
黒い人影が、裾を床に引きずったまま玄関の前へ滑った。
歩くときの上下動がまったくない。
相馬は慌てて足を止めた。
右へ身体を振ると、人影の頭も右を向いた。左へ逃げようとすると、今度は左へ向く。
布が人間の顔の起伏を保ったまま、相馬の動きを追っていた。
相馬は玄関の取っ手を見た。
その手前に、布に覆われた五本の指が下がっている。
「っ……!!」
目と鼻の先に、たった今、高橋を殺したものが立っている。
突っ込むか? いや無理だ。捕まったら俺も……! どうする、どうすれば――――あ……!
横を見る。
小部屋のドアが半分開いていた。
あそこ!
相馬は身体を返して飛び込んだ。
背後で布の擦れる音がした。
振り返るな!
ドアへ手をかけ、身体を小部屋の中へねじ込む。
閉じる直前、黒い裾が廊下の半ばまで来ているのが見えた。
相馬は扉を叩きつけた。
ガタン、と枠が鳴った。




