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しみ  作者: 大窟凱人


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3/9

消失

「……なあ」


「はい」


「見えてるよな」


「み、見えてます」


 相馬は腰へ手をやった。

 スプレーとカッターは、いつもの位置。

 指を掛けると、手の震えが少しだけ収った。

 玄関までは七、八歩だった。相馬はその距離を確認し、


「高橋」


「はい」


「お……俺があれ見とくから。お前、玄関」


 高橋はうなずき、一歩下がった。さらにもう一歩、二歩後退する。シーツは立ったまま、まだ動かない。


「相馬さん」


「え?」


「あれ……なんか……俺のほう――」 


 言い終わる前に、シーツの端が走った。

 高橋の首へ巻きつく。


「ぐっ――」


 顎を突き上げられた高橋がよろめき、踏ん張った靴底が畳を擦った。さらに別の端が腰へ回り、胸を横切って片腕を胴へ縛りつける。防護服が脇の下で引き攣れ、もう一方の端が腿に絡みついたところで、高橋はほとんど身動きが取れなくなった。


「高橋!」


 相馬は首の布を両手で引いた。洗い古した綿のざらつきが指に当たる。

 力を込めるが、びくともしない。

 高橋が鼻から息を吸った。

 もう一度吸おうとして、喉の奥から細い笛の音が洩れた。マスクが口元へ吸いつき、頬が赤黒くなっていく。高橋は顎を左右に振り、布の巻きついていない場所を探しているようだったが、動かすたびに首を締める皺が細く寄っていった。


「離せこの……!」


 相馬は腰のカッターへ手を伸ばす。

 そのとき、高橋の顎がぐいと跳ね上がった。

 相馬はカッターを抜くより先に、首と布の間へ二本の指をねじ込んだ。だが、布はその指ごと高橋の喉へ食い込んでくる。


 高橋の手が痙攣しながら相馬の腕を探った。

 指先が防護服の袖を掴む。いったん滑り落ち、もう一度掴んだ。


「相馬、さん……」


「待ってろ! 今、外すから!」


「お……ぁ……」


 高橋の目が相馬を見た。白目の細い血管が浮き、目尻から溢れた涙がこめかみへ流れた。

 相馬は布の縁へ指を掛け直し、膝を使って身体ごと引いた。

 布がさらに締まった。


 ――ボキッ。


 引いていた指先に、硬いものがずれる感触が伝わった。

 「かっ」と小さい声。

 高橋の頭が右肩へ落ちる。

 相馬の袖を握っていた指がほどけた。


 首を締めていた布がゆるみ、するすると離れた。

 高橋の身体が畳へ倒れる。肩から落ちた頭が一度跳ね、防護服の袖が不自然な方向へ折れ曲がった。


「た、高橋!」


 相馬が近づこうとしたとき、黒いシーツが高橋の足元へ広がった。

 裾が靴先にかかり、そのまま脚を覆っていく。膝、腹、胸。布は高橋の身体の起伏を拾いながら、ゆっくり頭まで進んだ。

 覆い終えたところで、動きが止まった。

 相馬は息を殺した。


 シーツの下には、仰向けになった高橋の輪郭があった。胸から腹へ続く緩やかな盛り上がり。腰の両側に伸びる腕。少し離れた二つの靴先。

 その胸の高さが、わずかに下がった。


 相馬は目を凝らした。

 もう一度、下がる。


 胸を覆っていた布に細かな皺が寄り、その皺が腹へ向かってゆっくり滑っていった。防護服の膨らみが失われ、肘の位置にできていた角も丸くなっていく。

 畳に接している布の裾は動いていない。

 中の高橋だけが、薄くなっていた。


 膝の高さが失われた。太腿から足首へ続いていた緩やかな起伏が低くなり、両足の靴先も、押し潰されるように平たくなった。


 頭だけが残っていた。

 額の丸みから鼻筋へ、そして顎へと続く形が、黒褐色の布を内側から持ち上げている。


 鼻筋が低くなっていく。

 顎が沈む。

 最後に後頭部の丸みが失われ、支えをなくした布が畳へ落ちた。

 ぺたり、と湿った音がした。


 相馬は、布の端から靴がはみ出していないか探した。

 何もなかった。

 靴も、防護服も、身体もない。


 黒褐色の染みの脇に、新しい湿りが広がっていた。


 沈黙。


 お……終わった……のか?


 相馬がそう思った瞬間、畳に落ちていたシーツの中央が持ち上がった。


「ひっ」


 さっき高橋の頭が消えたあたりだった。


 布の下に丸い膨らみができ、それがゆっくり高くなる。頭ほどの大きさになったところで、その両側が持ち上がり、肩の幅が生まれた。

 続いて胸がせり上がった。

 畳の上に広がっていた布が引き寄せられ、垂直に皺を作っていく。腕にあたる二本の膨らみが左右へ伸び、裾の下には二本の脚の位置ができた。

 黒褐色の布が頭から垂れ、額と鼻筋に沿って張りついている。口元には浅い窪みがあり、顎の下から細かな皺が幾筋も垂れていた。


 相馬はその背丈を見ていた。

 高橋と同じだった。


 人影の右腕が上がった。

 布の内側から手のひらが押し当てられ、五本の指が浮き上がった。指の間に布が落ち込み、一本一本の形がはっきり見えた。


 そして、人影の頭がこちらを向いた。


「あ……あ……」

 

 見られた。認識された。次は……俺?


 相馬は自分の右手を見た。

 高橋の首へ差し込んだ二本の指が、まだ曲がったままになっている。伸ばそうとすると、さっきの硬い感触が戻ってきた。


 数歩先の磨りガラスが昼の光で白く光っている。玄関までの畳には何も落ちていない。走れば届く。

 相馬は駆け出した。


 ――二歩目だった。


 黒い人影が、裾を床に引きずったまま玄関の前へ滑った。

 歩くときの上下動がまったくない。

 相馬は慌てて足を止めた。


 右へ身体を振ると、人影の頭も右を向いた。左へ逃げようとすると、今度は左へ向く。

 布が人間の顔の起伏を保ったまま、相馬の動きを追っていた。

 相馬は玄関の取っ手を見た。

 その手前に、布に覆われた五本の指が下がっている。


「っ……!!」


 目と鼻の先に、たった今、高橋を殺したものが立っている。

 突っ込むか? いや無理だ。捕まったら俺も……! どうする、どうすれば――――あ……!


 横を見る。  

 小部屋のドアが半分開いていた。


 あそこ!


 相馬は身体を返して飛び込んだ。

 背後で布の擦れる音がした。

 振り返るな!

 ドアへ手をかけ、身体を小部屋の中へねじ込む。

 閉じる直前、黒い裾が廊下の半ばまで来ているのが見えた。

 相馬は扉を叩きつけた。

 ガタン、と枠が鳴った。

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