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後悔したくないから

最近、カイルのもとに若い男性の部下が一人配属された。


まだ仕事には慣れていないものの、真面目で素直な青年だった。


そして何より――カイルによく懐いていた。


仕事が終わると、時々カイルの部屋を訪ねてくる。


その日もそうだった。


「カイル様……少し、ご相談があるのですが」


「うん。どうしたの?」


いつものように本を閉じ、カイルは部下を見る。


青年はしばらく言い出せずにいたが、やがて意を決したように口を開いた。


「僕……結婚したいと思っている女性がいるんです」


「そうなんだ」


カイルは穏やかに微笑んだ。


「おめでとう」


「……ありがとうございます。でも」


青年の表情が曇る。


「両親に反対されていて……」


「反対?」

「家柄が釣り合わないとか、もっと別の相手を探したほうがいいとか……」


青年は膝の上で手を握った。


「僕自身は、彼女と一緒にいたいんです。でも、両親を悲しませることも怖くて」


カイルは黙って青年を見つめた。


その言葉を聞いた瞬間。


ふと、昔のことを思い出した。


ルシアのこと。


離れていた数年間のこと。


そして――。


あの頃、自分がどれほどルシアを失いたくなかったのか。


「……僕もね」


カイルが静かに口を開いた。


「一度、大切な人と離れたことがあるんだ」


青年が顔を上げる。


「カイル様が……?」


「うん」


カイルは窓の外へ目を向けた。


「僕のために、ルシアが離れていったんだ」


それは、自分たちの身分の違いを思えば仕方のないことだった。


ルシアは自分から離れることで、カイルが王子として生きていけるようにした。


自分の存在が、彼の未来の邪魔にならないように。


「最初は、いつか戻ってくると思ってた」


けれど、戻ってこなかった。


探しても見つからない。


手がかりもない。


どこにいるのかも分からない。


「時間が経てば経つほど……会いたいという気持ちは強くなった」


カイルの声は静かだった。


けれど、その言葉には長い時間の重さがあった。


「仕事をしていれば、考えなくて済むと思った」


公務に没頭した。


誰よりも働いた。


自分の立場を確かなものにしていった。


それでも。


「夜になると、思い出すんだ」


青年は何も言わず聞いている。


「今日もどこかで元気にしているかな、とか」


カイルは少し笑った。


「寒くないかな、とか。ちゃんと食べているかな、とか」


そして最後に。


「……僕のことを、まだ覚えているかなって」


青年の胸に、その言葉が深く残った。


「でも……再会できたんですね」


「うん」


カイルは頷く。


「だから今は、ルシアがそばにいることが、とても大切なんだ」


その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「一度離れてしまったからこそ分かるんだと思う」


カイルは青年を見る。


「大切な人と一緒にいられる時間は、当たり前じゃない」


「……」


「両親の気持ちも大切だと思う。でも」


カイルはゆっくりと言った。


「自分が本当に望んでいる未来まで、誰かに決めてもらわなくていいんじゃないかな」


青年は黙っている。


「もし彼女を諦めたら……」


カイルは少しだけ目を伏せた。


「いつか後悔するかもしれない」


そして、まっすぐ青年を見る。


「僕は、君に僕と同じ思いをしてほしくない」


その言葉が部屋に静かに落ちた。


「だから、自分が本当に大切にしたい人を、自分の意思で選んでほしい」


青年はしばらく俯いていた。


やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「……ありがとうございます、カイル様」


「うん」


「僕、彼女との未来を諦めません」


その言葉を聞いて、カイルは穏やかに笑った。


「それなら、きっと大丈夫だよ」


青年が立ち上がる。


「両親と、もう一度ちゃんと話してみます」

「うん。頑張って」


青年が一礼し、扉へ向かう。


そのとき。


カイルはまだ知らなかった。


――その扉の向こうに、ルシアがいることを。


そしてルシアが。


今の話を、最初から最後まで聞いてしまっていたことを。

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