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溢れる思い

視察の最終日。


夕方には、カイルたちはこの小さな町を離れる予定だった。


町での用事を終えたカイルは、一人で海岸へ向かっていた。


町の外れにある海岸は静かだった。


穏やかな波の音だけが聞こえる。


砂浜を歩いていると。


少し離れた場所に、一人の女性が座っているのが見えた。


カイルは足を止めた。


――リナ。


いや。


彼女が誰なのか、カイルには分かっている。


昨日、広場で目が合った瞬間から。


けれど。


彼女が別人を名乗る理由も、分かっていた。


だから、無理に本当の名前を呼ぶつもりはなかった。


カイルは静かに近づく。


ルシアは、手の中にあるものをじっと見つめていた。


夕日の光を受けて、小さなネックレスが淡く光っている。


その瞬間。


カイルは、その場に立ち止まった。


見覚えがあった。


昔。


二人で街へ出た時。


カイルが彼女に渡したもの。


あのネックレスだった。


何年も経っている。


それでも。


彼女は今も持っていた。


カイルは、胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。


けれど。


何も言わなかった。


砂を踏む音に、ルシアが振り返る。


その瞬間、驚いたように目を見開いた。


――カイル様。


心の中で、思わずそう呼んでいた。


けれど、口には出さない。


ルシアはただ、ネックレスを手の中でそっと握りしめた。


「……リナ」


カイルは、昨日彼女が名乗った名前を呼んだ。


ルシアは動きを止めた。


「……どうして、ここに」


「少し散歩をしていたんだ」


「……そうですか」


短い沈黙が流れる。


ルシアはネックレスを握ったまま、立ち上がろうとした。


「帰るところですので」


「そう」


カイルは引き止めなかった。


ただ。


「少しだけ、いい?」


ルシアは戸惑ったようにカイルを見る。


そして、小さく頷いた。


「……はい」


カイルは彼女から少し離れた場所に座った。


すぐ隣には座らない。


波の音を聞きながら、海を見つめる。


しばらく、誰も何も話さなかった。


やがて。


カイルが静かに口を開いた。


「昔ね」


ルシアの指が、ネックレスを握る力を少し強める。


「僕がよく行く中庭があったんだ」


ルシアは黙ったまま聞いている。


「人がほとんど来ない場所でね」


カイルは懐かしそうに笑った。


「僕はそこで、本を読んでいた」


「……」


「そうしたら、ある日、一人の侍女が来たんだ」


ルシアの視線が、ゆっくりとカイルへ向く。


「最初はすごく緊張してた」


「……」


「僕の顔を見るたびに、何か言わなきゃって思っていたみたいで」


ルシアの唇が、かすかに震える。


「でも、そのうち何も話さなくても隣に座ってくれるようになった」


「……」


「僕が本を読んでいる間、ずっとね」


カイルは少し笑った。


「静かな時間だった」


そして。


「でも、僕は好きだったよ」


ルシアの目が揺れた。


「何も話さなくても」


カイルはゆっくりと言った。


「誰かが隣にいてくれることが」


波の音が響く。


ルシアは、手の中のネックレスを見つめた。


カイルはそれを見ている。


けれど。


何も言わない。


「それからね」


カイルは続ける。


「一度、その子と街へ行ったことがある」


ルシアの指が、ネックレスを強く握った。


「小さなお店を見つけて」


「……」


「そこで、ネックレスを買った」


ルシアは顔を伏せる。


「その子に似合うと思ったんだ」


カイルは笑った。


「渡した時、すごく驚いてた」


「……」


「それから、その子が大事にしてくれていたかどうかは、知らないけど」


その言葉に。


ルシアの肩が震えた。


けれど。


カイルは問い詰めなかった。


「……きっと」


ルシアが、小さく言った。


カイルがそちらを見る。


「……きっと、その方は」


声が震えていた。


「とても、大切にしていたと思います」


カイルは、しばらく何も言わなかった。


そして。


「そうかな」


穏やかに笑った。


「はい」


ルシアは俯いたまま答えた。


「きっと」


カイルは海を見つめる。


「……そうだったら、嬉しいな」


カイルは少し間を置く


「そのあと、いろいろあった」


カイルの声が少しだけ寂しくなる。


「僕たちは離れてしまった」


カイルは続ける


「探したよ。何度も」


ルシアの目に涙が浮かぶ。


それでも、口を開かない。


「でも、見つからなかった」


カイルは少し間を置いた。


「だから……もう会えないのかもしれないって、何度も思った」


そして、ルシアの手の中のネックレスを見る。


「それでも、忘れられなかった」


ルシアはただ黙って聞いていた。


カイルは、もう一度ゆっくりと口を開く。


「その子が今、どこにいるのか……ずっと知りたかった」


ルシアの目から、涙が一粒こぼれた。


けれど、すぐに顔を背ける。


カイルは、ルシアの頬を伝う涙を見ても、すぐには何も言わなかった。


ただ、静かに続ける。


「その子ね……昔、僕に言ったことがあるんだ」


ルシアの肩がわずかに揺れる。


「自分のせいで、僕が困ることになるのは嫌だって」


ルシアは目を伏せた。


「だから、きっと……僕の前からいなくなったんだと思う」


カイルの声は責めるようなものではなかった。


「僕は、ずっとそれが引っかかってた」


少しだけ笑う。


「僕は、そんなことを頼んだ覚えはないのになって」


ルシアの目から、また涙が落ちる。


「僕がどうするかは、僕が決めたかった」


カイルはゆっくりとルシアを見る。


「誰かが僕のために、自分を消す必要なんてなかったんだよ」


ルシアは唇を噛み、何も答えない。


「……でも」


カイルは小さく息を吐いた。


「もし、その子が今でも元気でいてくれたなら、それだけでいいと思ってた」


静かな沈黙。


「幸せに暮らしてるなら、それでいいって」


ルシアはとうとう顔を上げられなくなった。


カイルはそれ以上近づかない。


「失礼します」


ルシアは立ち上がった。


カイルもゆっくりと立ち上がる。


「今日で、この町を出るんだ」


ルシアの動きが止まった。


「……そうですか」


「うん」


ルシアはしばらく黙っていた。


そして。


「……お気をつけて」


小さな声だった。


カイルは彼女を見つめた。


「ありがとう」


そして。


カイルはゆっくりと一歩近づいた。


ルシアが顔を上げる。


カイルは何も言わず。


そっと。


彼女の頭に手を置いた。


ぽん。


昔と変わらないような、優しい手つきだった。


ルシアの目が大きく見開かれる。


「……カイル様」


思わず。


我慢できずに。


その名前を呼んでしまった。


カイルの手が止まる。


けれど。


すぐに、優しくもう一度。


ぽん、と頭を撫でた。


「……またね」


ルシアは動けなかった。


涙が、次々と溢れてくる。


呼ぶつもりではなかった。


もう二度と。


自分からその名前を口にするつもりではなかったのに。


それでも。


昔と同じように頭を撫でられて。


昔と変わらない声で。


またね、と言われて。


我慢できなかった。


カイルは、彼女を問い詰めなかった。


「ルシア」と呼ぶこともしなかった。


ただ。


「またね」


もう一度、静かに言った。


そして。


カイルは背を向けた。


ルシアは、その背中を見つめる。


手の中のネックレスを強く握りしめながら。


唇を噛んで。


必死に、声を抑えようとした。


けれど。


もう、止められなかった。


「……カイル様」


今度は。


はっきりと。


カイルの足が止まった。


夕暮れの海岸に。


波の音だけが、静かに響いていた。

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