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戻りたい

「そういえば、第二王子殿下は今日から視察に出られるんだって」


仕事の合間、侍女仲間から何気なく聞かされた言葉に、ルシアの手が止まった。


「視察……ですか?」


「ええ。一週間くらい戻られないみたい」


「……一週間」


その言葉を聞いた瞬間、ルシアの胸が小さく揺れた。


一週間。


その間、カイルは城にいない。


ルシアは無意識に窓の外へ視線を向けた。


その先には、あの中庭へ続く方向がある。

ずっと行きたかった。


あの日から、一度も行っていない。


本当は何度も足を向けようとした。


けれど、もし中庭に行って、カイルさんがいたら。


そう考えると、どうしても行けなかった。


以前のように話すことはできない。


『カイルさん』と呼ぶこともできない。


だから、会わないために中庭から遠ざかっていた。


けれど――。


今日は、いない。


そう思うと、胸の奥にしまっていた気持ちが少しだけ顔を出した。


その日の仕事を終えると、ルシアは静かな廊下を歩いた。


そして、久しぶりに中庭の扉を開けた。


「……」


懐かしい風が頬を撫でる。


木々の葉が揺れ、柔らかな日差しが差し込んでいる。


何も変わっていない。


カイルがいつも本を読んでいた木。


二人で庭の手入れをした場所。


交換日記を見せ合った場所。


全部、そのままだった。


「……久しぶり」


誰もいないのに、ルシアは小さく呟いた。


木の下に腰を下ろす。


以前なら、ここにカイルがいた。


本を読みながら、ルシアが来ると顔を上げてくれた。


『今日は遅かったね』


そんなふうに、穏やかに話しかけてくれた。


「……カイルさん」


名前を口にしただけで、胸が苦しくなった。


「遠い人になっちゃったな……」


ルシアは俯いた。


第二王子。


自分とは住む世界が違う人。


それを知らなかった頃は、そんなことを考えもしなかった。


ただの庭師だと思っていた。


だから、気軽に話しかけた。

一緒に笑った。



一緒に庭を整えた。


何でも話せると思っていた。


「……何も知らなかった頃に戻りたい」


声が震える。


「カイルさんが第二王子殿下だって知らなかった頃に……」


静かな中庭に、ルシアの声だけが落ちていく。


「また、普通に話したいな……」


そのとき。


「にゃあ」


「……え?」


聞き覚えのある鳴き声がした。


振り返ると、植え込みの向こうから一匹の猫が姿を現した。


ルシアは目を見開く。


「……あなた」


初めてカイルと出会った日。


この猫を追いかけて、中庭へ入った。


そして、木の下で本を読んでいたカイルと出会った。


「久しぶり……」


猫がルシアの足元へ近づいてくる。


ルシアはしゃがみ込み、そっと頭を撫でた。


「ねえ……聞いてくれる?」


猫は返事をするように、小さく鳴いた。


「私ね、カイルさんと出会ったとき、カイルが第二王子殿下だなんて知らなかったの」


「だから、何も考えずに話せたの」


「カイルさんも、普通に笑ってくれて……」


ルシアは猫を撫でながら、少しだけ笑った。


けれど、その笑顔はすぐに寂しそうに揺れた。


「今は……第二王子殿下って呼ばないといけなくなっちゃった」


「なんだか、すごく遠い人になったみたい」


猫がじっとルシアを見上げる。


「……私、あの日々に戻りたい」


「何も知らなかった頃に戻って……またカイルさんと話したい」


「中庭で、本を読んでるカイルさんの隣に座って……くだらない話をして……」


声が少しずつ小さくなる。


「……また、カイルさんって呼びたい」


その言葉を最後に、ルシアは俯いた。


知らないふりをしていた気持ちが、ようやく口からこぼれた。


その頃――。


予定より早く視察を終えたカイルは、すでに城へ戻っていた。


そして、偶然にも中庭の近くを通りかかっていた。


ふと、聞き覚えのある声がする。


足を止める。


中庭の外。


扉の向こうから聞こえてきたのは――。


「……また、カイルさんって呼びたい」


カイルは目を伏せた。


その声を、聞き間違えるはずがなかった。

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