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心の距離

散らばった書類を拾おうとしていたルシアの手が、止まった。


顔を上げる。


そこには、カイルがいた。


「あ……」


思わず声が漏れる。


あの日以来、仕事でも一度も顔を合わせていなかった。


中庭にも行かなくなった。


カイルの姿を探すこともしないようにしていた。


だから、突然目の前に現れたカイルを見て、どうしていいのか分からなかった。


カイルは何も言わず、床に落ちた書類を一枚ずつ拾っている。


その横顔は、以前中庭で見ていたものと変わらない。


本を片手に木の下でのんびり過ごしていた姿。


庭の手入れを一緒にしたときの穏やかな笑顔。


くだらない話をして笑った時間。


全部が一瞬で蘇ってくる。


けれど今は――。


「……第二王子殿下」


ようやく絞り出した声は、以前とは違っていた。


カイルの手が、ほんの少し止まる。


それでも何事もなかったように、最後の一枚を拾い上げた。


「これで全部かな」


「……はい」


カイルが書類を差し出す。


ルシアは両手で受け取った。


「ありがとうございます」


深く頭を下げる。


カイルは、しばらく何も言わなかった。


以前なら、


『また書類落としたの?』


なんて、少し笑いながら言っていたかもしれない。


けれど今のルシアには、それを言える距離がない。


カイルも、それを分かっていた。


「……順番、分からなくなってる?」


「え……」


ルシアが書類を見る。


確かに、拾うことに夢中で順番が分からなくなっていた。


「少しだけ……」


「なら、こっちが上だと思うよ」


カイルが一枚を指差す。


「この印がついてるものが最初だから」


「……ありがとうございます」


また、頭を下げる。


カイルは小さく息を吐いた。


そして、以前なら自然に呼んでいた名前を、今は呼ぶことができずにいた。


ルシアも同じだった。


二人の間に、短い沈黙が落ちる。


やがてルシアが書類を抱え直した。


「それでは、失礼いたします」


そのまま立ち去ろうとする。


「ルシア」


背中から呼ばれた。


足が止まる。


けれど、振り返ることができない。


「……はい」


「……」


カイルも、続く言葉を探していた。


呼び止めたものの、何を言えばいいのか分からない。


ただ、もう少しだけ話していたかった。


それだけだった。


「……書類、重そうだから。気をつけて」


「……はい」


それだけを答えて、ルシアは歩き出した。 


廊下の角を曲がり、姿が見えなくなる。


カイルはその場にしばらく立っていた。


以前なら、あの背中を見送ることなんてなかった。 


中庭へ行けば、また会えたから。


けれど今は――。


「……遠くなったな」


誰にも聞こえないほど小さな声が、廊下に消えた。

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