第54話 エリト王子の決意
ハリムの兵たちに追われ、あわやというところで、私たちは命を救われた。
私とヒルエを救ってくださったのはケント殿という方だ。自らを小さな村の代表と仰るが、決してそのような軽い存在ではないのは経験の浅い私にもわかる。
フィクスという女神は寡聞にして知らなかったが、話を聞く限り決して力なき神ではない。おそらく、かなりの、ルーンソフィ様に近い立場の高位神と思われる。そんなフィクス様を直接拝見することを許されているのだから、かなりの徳を備えられているはずだ。私たちを快く迎え入れてくれたのも、その徳の高さゆえだろう。
さらには、ケント殿はフィクス様から授かったと思われる不思議な能力を持っておられた。特に、あの転移の力は凄まじい。追手から救っていただいたあと初めて体験したときには、思わず取り乱してしまったほどだ。
しかし、それも仕方がないことだと思う。何せ、移動しますと手を引かれた直後に見慣れぬ里にいたのだから。聞けば、里はあの場所から数日歩く距離にあるらしい。それを一瞬で飛び越えたのだから驚きだ。運べる人数には限りがあるようで、軍隊ごと移動するといった使い方はできないそうだが……それでも驚くべき能力には違いない。
「平和な村みたいね」
隣で里の様子を眺めるヒルエがぽつりと呟く。
「そうだね」
踏めこめば死を免れるという死招きの森。実際、私たちの供をしてくれた兵たちが何人も倒れている。この森は聞きしにも勝る魔境だった。
そんな森の中にあって、この“アラヤ村”は死の恐ろしさを微塵も感じさせない。なんと女神の加護によって魔物を寄せ付けないのだという。信じられない話だが、おそらくは事実なのだろう。村の周囲には獣避けの簡易な柵がある程度で、魔物に対する備えはないのだから。
女神の加護はそれだけではない。里に幾つかある聖樹は、果実を無限に実らせるという。こんな危険な場所で里が維持できるのも、その恩恵があるからこそだ。
里では腕利きの戦士が魔物を狩り肉を得ているが、生きるだけならばそれなしでも日々の糧を得られる。この事実は大きいはずだ。
もし肉を狩る戦士が負傷したら。普通の村なら、食料の供給が追いつかなくなり、立ち行かなくなるだろう。かといって、戦士が無理を押して仮に出かけたならば、怪我が原因で遅れを取り、結果命を落とす可能性は高い。
しかし、この里ではそれがないのだ。肉が狩れなくても、決して飢えることがない。戦士は無理せず療養に専念できるのだ。
他にも、聖樹の妖精や魔法研究が盛んな我が国ですら見ないような特殊な魔法など、女神の加護や恩恵と思しき事柄がいくつもある。もはや、疑いようがない。ここは女神に守られた里なのだ。
住人の顔に不安はない。この里の大半はハリム王国からの難民らしいが、例外なく明るい顔をしている。故郷を追われたにもかかわらず、何故笑えるのか。理由は明白。彼らには希望が見えているのだ。
ケント殿はおそらく女神の寵愛を受けた聖者。ケント殿の導きに従えば、将来は明るい。そう信じられるからこそ、彼らの表情に憂いはない。これは平穏から遠ざかりつつある大陸において、とても稀有なことだ。
翻って、私たちはどうだろうか。
ハリムから襲撃を受け、領土の半分ほどを失い、城から逃れることになった私たち。供をしてくれた兵たちともはぐれ、今や私とヒルエの二人だけ。王都に残った父上や兄上が生きておられるかさえわからない。この状況で希望など、抱けるはずもなかった。
「ねぇ、エリト。私たちこれからどうすればいいのかしら」
ヒルエがこちらも見ずに、ぽつりと呟く。その視線の先には里の子どもたちが無邪気に走り回っていた。駆け寄ればすぐにたどり着ける距離。それなのに、私にはその光景がひどく遠くに感じられる。まるで見えない壁がそびえ立っているかのように。平穏な暮らしは近くて遠い。
「ヒルエ、大丈夫? どこか痛いか?」
私たちが眺めていることに気がついたのか、子どものひとりが駆け寄ってきた。ケント殿の娘で、名前はピコと言ったか。ケント殿は普人で、彼女は獣人。おそらく血はつながっていないが、それでも本当の親子のように信頼しあっているのは見てわかる。
彼女はこんなにも簡単に壁を飛び越えてきた。いや、わかっている。壁なんて初めから存在しないのだ。踏み越える気持ちがあるかどうか。その気持ちさえ持てるなら、ケント殿は私たちも快く迎えてくれるだろう。
「大丈夫よ、ピコさん。そう……ちょっと考え事をしていたの」
「なるほほ! 難しいこと考えると、いーってなる!」
「そうね」
彼女の無邪気さにつられて、ヒルエにも笑顔が浮かぶ。
「そういうときには、あわ、すればいい! ぶくぶくすると、ニコってなるよ!」
「ふふ。そうなの? でも、大丈夫よ。ピコさんのおかげで笑顔になれたから」
「そっか! 困ったことあったら、ピコに言ってな? ピコがわからなくても、ケントが助けてくれるよ!」
「そうね。ありがとう」
ヒルエがそう言うと、ピコは満足したように仲間たちのもとへと戻っていく。その様子を見守るヒルエの横顔には笑顔が戻っていた。
その顔を見て思う。やはり妹に憂い顔は似合わない。心優しい彼女を戦いから遠ざけなければならないと。
「ヒルエ。君はここに残るべきだよ。父上は王家の血を絶やさぬようにと言っていた。ここならきっと戦火に巻き込まれることはない。ケント殿に頼めば、きっと温かく迎え入れてくれるよ」
ヒルエが私をじっと見た。何もかも見透かすような目が私を射抜く。
「ええ、そうね。それがいいかもしれないわ。でも、エリト。あなたはどうするの?」
「私は……」
私はどうしたいのだろうか。未だ心が定まらない。
平穏を望む心はもちろんある。しかし、王家の者としてそれが許されるのか。野盗の如く押し寄せるハリムの兵たちに民が蹂躙されるのを黙って見ているだけしかできないのか。父上や兄上はまだ戦っておられるというのに。
しかし、私が戦ったところで何が変わるというのか。決戦で敗れたエステラはほぼ死に体。遠からず、全土がハリムの手に落ちることになるだろう。私ひとりが勇んで戦いに加わったところで、物言わぬ死体がひとつ増えるだけ。それによって救われる民がいるなら挑む価値はあるが、実際には何の影響も及ぼすことはできないだろう。私は――――無力だ。
「エリト。あなたの気持ちもわかるけど……それでもお父様は私たちに生きよと命じられたのよ」
「ヒルエ……」
そう、だな。ヒルエの言う通りなのだろう。すでに供をしてくれていた兵たちはいない。守るべき民とも引き離された私たちは、王家としての立場もおぼつかない。もはや、私はエリトというただ一人の人間に過ぎないのだ。ならば、この村で平穏に暮らすことも悪くないのかもしれない。
私もここで――――
出かかった言葉は、しかし発せられることはなかった。
「エリト様、ヒルエ様!」
不意にかけられた声は、私がよく知ったものだった。思わず振り返れば、そこにはやはり知った顔。
「爺!?」
「ロウ……無事で良かったわ」
「ふはは! このロウヒィエル、老いたるとはいえ、ハリムの雑兵などに遅れはとりませんぞ! とはいえ、魔物に襲われて難儀しておったところを、この里の者に救われたのです」
どうやら、ケント様がエステラ兵の生き残りを探し、救助してくれたらしい。爺の他にも数名の生き残りが見つかったようだ。
「安心してくだされ! お二人の安全は儂が守ります。まだまだ若い者には負けませぬぞ」
「……ありがとう、爺」
「なんの!」
そうか。爺はなおも忠節を尽くしてくれるか。ならば、私も最後までエステラの王族としての矜持を捨てまい。
「エリト……」
何かに言いたげに私の名を呼ぶヒルエ。しかし、私はその意図を確かめることはしなかった。そうしてしまえば、挫けてしまうかもしれないから。
平穏を望む心は今なお胸に残っている。いや、むしろその心は一層強まった。
だが、私が望むのは私個人の平穏ではない。エステラの民すべてが安らかなること。それこそが、私の望む未来。そうでなければならないのだ。
なぜならば、私はエステラの王子なのだから。




