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「高野君おはよう」
「あぁ」
教室中の視線が集まる。
それもそうか。背が高くて目つきがあまりよくない高野君は、遠巻きにされているし。私に関してはほぼ空気だった。
この組み合わせに驚くのも無理ないよな。
「おい。これ姉貴から」
手渡されたのはずっしりとした包み。
「?」
「弁当。食えってさ」
「弁当!? 初めてだ。え~お昼が楽しみ。だからみんな昼休みが好きなんだね。知らなかった」
「いや、違うと思うけど。まぁいい。ちゃんと食えよ」
そう言うと、高野君は自分の席に戻って行った。
「あの高野君に弁当貢がせるって、河野さん何者?」
そんな声が聞こえてきたが、私の意識は弁当にしか向けられていない。
お昼休みが待ち遠しいのは初めてだった。いつもはただ時間を潰すだけの無意味な時間でしかなかったから。
でも今日は。
包みを開いて弁当箱を開ける。
「わ~」
綺麗に詰められた中身。
卵焼きにウィンナ-、きんぴらごぼう。唐揚げまで入っているではないか。なんて贅沢な!
昨日使わせてもらった葉月ちゃんのお箸が付いている。
「いただきまーす」
やっぱり美味しい。舌鼓をうっていると、ひそひそと声が聞こえる。
「あれって子どもが使うお箸だよね。何て言ったっけ」
「トレーニング箸?」
「あぁそれそれ。もしかして河野さん箸の使い方わかんなのかな。頭はいいのにね。育ち悪いんだ」
自分で言うのもなんだが、成績だけはいい。休み時間もお腹を空かせて眠れない夜も、勉強くらいしかやることがないから。そして育ちは確かに悪い。なので特に気にならない。
「おいお前ら。余計なこと言ってんじゃねぇぞ」
「ひっ」
高野君の声に噂していた女子が悲鳴を上げる。
そんなに怖がらなくても、高野君は口が悪いだけなのに。
我関せずと弁当をつつく。卵焼きはじゅわっと甘くて美味しいし、きんぴらも味がしみてて美味しい。最後に残しておいた唐揚げを頬張る。幸せとはこのことか。美味しすぎて昇天しそう。
「ごちそうさまでした」
手を合わせる。
大満足である。
「高野君、花織さんに美味しかったって伝えて」
「自分で言えばいいだろう。どうせうちで飯食うんだし」
「そっか! 夕ご飯も食べられるんだ」
なんて素晴らしいんだろう。
「高野家には頭が上がりませんな」
「飯くらいで大げさな」
「大げさじゃないよ! ご飯が食べられてすごく幸せなんだから」
「そうか」
ふっと高野君が笑う。レアである。みんなも信じられないといった顔で見ている。
お腹が膨れたので、午後の授業が眠いという体験もできた。初めてのことばかりである。 夕ご飯が食べられるのは嬉しいけど、帰りが遅くなるのは困るよな。また母の機嫌が悪くなる。
「というわけなのだよ。ご飯の魅力には耐えがたいものがあるけど、面倒なことになるのも避けたいから。今日は高野君のお家行けないや」
「そうか。じゃあ行くぞ」
「え? どこに」
答えは聞けないまま手首を掴まれて歩き出される。
高野君は足も長いから、小走りにならないとついて行けない。引っ張られてるだけだけど。
見覚えのある道。高野君の家に続く道だ。
「高野君、だから私行けないんだって。お母さんの機嫌が――」
「帰らなければいいだろ。そんな家」
「そんなわけにはいかないじゃん。ひとり暮らしなんてできないし」
「お前はうちで保護する」
「はい?」
「餓死されたら困るからな」
「いやいや、警察呼ばれちゃうよ。迷惑掛けられない」
「警察呼んで都合が悪いのは向こうも同じだろ。娘に飯も与えてないんだから」
「でも」
「いいから付いてこい」
高野君の家に着いてしまった。
どうしよう。
「おい、連れてきたぞ」
「紬ちゃん! あぁよかった。幹人に紬ちゃんを連れてくるように言ったのよ。お家に帰すわけにはいかないと思って」
花織さんは私の両肩を掴んで抱き寄せる。
何が何だかでドギマギしてしまう。
「あと幹人。ただいまくらい言いなさいよ」
「うるせぇな」
「全く。相変わらず口が悪いんだから。紬ちゃん、おかえりなさい」
おかえりなさい? 私に言ったの?
「あらあらどうしたの。どこか痛い? 幹人に何かされた?」
「おい」
「違うんです。おかえりって、初めて言われてぇ」
子どものように泣きじゃくってしまうのは、お腹が満たされているからだ。泣く元気があるからだ。
「そうなのね……じゃあこれから沢山おかえりしないとね」
「うぅ」
「いいから泣き止めよ」
「ちょっと幹人。そんな言い方しなくてもいいでしょ」
「だがのぐんもありがどうぅぅ」
「泣き止んでから言えよ」
高野君はハンカチで私の顔をぐいぐいと拭く。
雑だが優しい。それと、高野君がハンカチを携帯していることの意外性ったらない。ちなみに私はハンカチなんて持ってない。
「あぁもう。そんなに擦ったら赤くなっちゃうでしょ。紬ちゃん、いらっしゃい。顔洗いましょう」
花織さんに連れられて洗面所で顔を洗う。「ついでにお風呂にも入っちゃいましょうか。私の服着てね」
ありがたくお風呂を頂く。
湯船に入るのは初めてだ。
数日に一度のお風呂で私に許されていたのはシャワーだけだったから。
温かいな。
体は温まるけれど、母のことを考えるとちっとも気は休まらない。
「お風呂、ありがとうございました」
「髪乾かせよ」
「?」
「来い」
高野君に再び脱衣所に連れて行かれる。
「じっとしてろよ」
気持ちがいい。ドライヤーってやつだ。私は使っちゃいけなかったから、髪を乾かすという発想はなかったなぁ。
「熱くないか」
「うん。気持ちいい」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、私の髪を触る手はとても優しい。
やっぱり高野君は優しい。
「ほら、終わったぞ。次からは自分で乾かせよ」
「うん。ありがとう高野君」
至れり尽くせりである。
こんなに心が解れてしまうと危険である。私の生存本能がそう告げている。
生き延びるのに必死だった。期待などしてはいけない。小さな希望はいつだって打ち砕かれたから。だから、これ以上ここにいてはいけない。期待しそうになってしまう。
「出てかなきゃ」
名残惜しいけど。柔らかくなったところをグサリと刺されては、立ち直れない気がするから。
花織さんの服は借りていこう。
荷物を持って玄関へ向かう。
「おい。どこに行く気だ」
誰の目にも付かずリビングから出るのは流石に不可能だった。
「だって」
「だって、何だよ」
「ここにいたら心地よすぎて現実忘れそうになるんだもん」
誰からも愛されていないという現実。物置でひとり腹を空かしている現実。夢を見たあとはいつだって虚しくなった。
高野家での出来事は全て、夢のようなものである。長い時間夢に浸っていると、その分現実に戻るのが辛くなる。いち早く目覚めなければならないのだ。
「そんもん忘れりゃいいだろ。飯食って寝ろ。お前がやらなきゃいけないことはそれだけだ」
高野君に連行され、リビングのソファに座らされる。
「葉月。こいつ見張ってろ。逃がすなよ」
「はーい」
そう言って高野君は二階へ上がっていった。
「紬ちゃん、逃げようとしたの?」
「逃げるって言うか、帰ろうとしたんだよ」
「帰るってどこに? 葉月のお家が紬ちゃんのお家になるって聞いたよ」
何だって!?
「そ、それは誰が言ってたのかな?」
「え、みんな」
「みんな!?」
「お父さんとお母さんと、お姉ちゃんが。あ、お兄ちゃんが」
「おい、余計なことは言わなくていい」
いつの間にか戻ってきた高野君が葉月ちゃんの口を塞ぐ。
葉月ちゃんは手をバタバタさせて抵抗している。
「おい。お前の部屋、用意できたから」
はい!?
「え、と。どういう意味?」
「そのままの意味だろ。お前が寝る部屋」
何が何だかわからない。めまぐるしく情報が押し寄せてくれる。
「まさか本当に私のこと匿おうとしてる?」「俺が冗談言うように見えるのか」
「見えないけど。でもお母さんが何て言うか」
「親の連絡先教えて。うちの親から話し通すから」
「なんでそこまでしてくれるの」
親切とはほど遠い世界で生きてきた。優しさもほとんど知らない。見返りを求められない優しさが少し怖い。
「言っただろ。寝覚めが悪いからだって」
それにしたってやり過ぎなくらい世話を焼いてもらっている。
「助けてなんて言ってないのに?」
ちょっと意地悪な言い方だったかも知れない。
「じゃあお前は腹空かせる生活が良いのか?」
「それは嫌だけど。でもいつまでもこんなことできないでしょ? 高野君だって困ってる人全員は助けられないよ。いつか私が重荷になるよ。そうなる前に適切な距離取らなきゃ私が傷つくから」
自己中心的だな、と思うけれど本当のことだ。傷つきたくはない。
「お前ひとりくらいは助けられる。他は誰かが助けるだろ。お前はあの家に戻るべきじゃない。適切な距離を取るのは俺とじゃない。お前の親とだ」
高野君の言葉にはっとする。
お母さんだって、嫌いな私の顔なんて見たくないのかも知れない。私がいなくなって清々するのかも知れない。いつから私は母に気にしてもらえると錯覚していたんだろう。
「そう、だよね。私がいなくてもあの家は変わらない。むしろ快適になるかもね。私が異分子だったんだよ。だから嫌われてたんだなぁ」
「おい。俺は別にそういうことを言いたかったわけじゃねぇぞ」
「いいの。嫌われてるのは本当のことだし。よし、高野家のご厄介になろうかな!」
本当はこれが正しいなんて思っていないけど。ひとりで生きていく力がないから。そこまで生命力高くないから。誰かに助けてもらわないと生きていけない。それも事実。
「お前の部屋は一階の客間な。和室だから鍵掛けらんねぇけど我慢しろ」
「鍵なんてそんな。物置部屋暮らしだから部屋を用意してもらえるだけでありがたいよ」
そういうと高野君は苦い顔をした。
「慣れんなよ」
「え?」
「そんな扱いに慣れるなよ」
少し、怒っているようだ。
「慣れないとやっていけなかったんだもん」
「……これからは舐められたら怒れ」
「今の高野君みたいに?」
「そうだ。諦めなくていい」
そうか。私、いろんなことを諦めていたのか。期待してがっかりしないように、予防線を張っていたんだな。
「わかった。期待するのは怖いけど、高野君が言うなら諦めるのはやめにする」
高野君は私の頭をくしゃりと撫でた。
用意してもらった和室は、広々としていて綺麗で、布団に机まであった。
「ここ私が使ってもいいの?」
「そのために用意した。使え」
こういうところが誤解されやすいんだろうな。高野君は言葉選びが下手だ。もう少し優しい言い回しができたらきっと凄くモテると思う。優しいし。でも、優しいところ知っているのは私だけがいいなとも思う。今となっては、高野君を取られたら死活問題である。
「ただいまぁ。紬ちゃん来てる?」
玄関の方から知らない声がする。
「うちの親が帰ってきた」
「え! ご挨拶しなきゃ」
急いで玄関に向かう。
高野君にそっくりな男性と、花織さんにそっくりな女性が立っていた。
「お邪魔してます。河野紬です。よろしくお願いします」
「あらぁ。可愛らしいお嬢さんね。私は幹人の母の楓です。それでこっちが父親の忍」
「話は聞いてるよ。今まで大変だったね。これからはうちが紬ちゃんを守るからね」
忍さんがそういうと楓さんも頷いた。
「さあさ、ご飯の準備をしましょうね」
楓さんがキッチンへ向かう。
お手伝いチャンスだ!
「私もお手伝いします!」
「ありがとう。じゃあレタス千切ってもらおうかしら」
「頑張ります!」
初めての料理である。
「ふふ。頼もしいわね」
楓さんと並んで料理をする。といっても調味料を手渡す助手くらいの仕事量だが。間近で料理している姿を見るのも初めてだから、真新しくて面白い。
「そろそろお箸の準備お願いしてもいいかしら」
「はーい」
これは忍さんの、これは花織さんのとお箸を並べる、私のお箸は葉月ちゃんのお下がり。からかう人はこの家にはいない。
「今に上手に持てるようになるわ」
「昨日よりは上手になってるわよ」
楓さんと花織さんの言葉にちょっと照れる。
「頑張ります」
「頑張らなくてもいいよ。まずは沢山食べること」
忍さんに同意するように楓さんと花織さんが頷く。
「昨日は葉月より食ってなかったからな。もっと食って肥えろ」
「ちょっと幹人、女の子に向かって言うことじゃないでしょ」
「紬ちゃん、肥えろって何?」
「太れって意味だよ」
「お兄ちゃん、そんなこと言っちゃだめでしょ」
非難囂々である。
「いいんです。確かに少し肉をつけないとですからね」
「紬ちゃんがそう言ってくれてよかったわ。全く、口が悪くてね、ごめんなさいね」
楓さんがため息交じりに謝る。
「高野君が優しいこと知ってるので、全然大丈夫です!」
「あら。まぁまぁ。よかったわね、幹人」
花織さんがニヤニヤしている。
「うるさい」
「照れてる照れてる」
姉弟だなぁと思う。
私は弟とこんな関係ではいられなかった。 母の背中を見て育ったからか、弟は私を軽視していた。召使いと思っていたようだ。小さい頃は姉であると認識していなかったのではないかと思う。年子なので、弟は中学三年生だ。流石に今は私のことを姉と認識してくれてるといいなぁ。
高野家に囲まれて美味しいご飯を食べる。
家族ってこんな感じなのか、とほかほかと温かい気持ちとともに、私はここでも異分子だという寂しい気持ちとが交差した。
「さて、そろそろ紬ちゃんの親御さんに連絡入れましょうか」
「連絡先教えてくれる?」
忍さんに連絡先を教える。
さっきまでのリラックスムードから一転して緊張感が走る。
どうしよう。怒られちゃう。
怒られるのはまだいい。もう二度とご飯くれなくなるかもしれないし、学校も辞めさせられるかもしれない。
「ま、待ってください」
スマホを握る忍さんを呼び止める。
体が震えているのがわかる。恐怖だ。
「大丈夫だ。誰もお前を傷つけられない」
高野君が静かに、でも力強く言う。
震える手を握ってくれた。
「高野君」
「手、握っててやるから」
高野君がそばにいてくれるなら。
忍さんに向かって頷く。
「……もしもし。こちら河野さんのお電話でよろしいでしょうか」
始まった。
高野君の手をぎゅっと握る。
大丈夫だ、というように高野君も手を握り返してくれる。
「えぇ、はい。こちらでお預かりしたいと考えております。はい、警察呼んでも構いませんよ。紬さんの状態を見れば虐待は明らかですからね」
物騒な言葉が並ぶ。
「えぇ、ご心配なく。紬さんは責任を持ってこちらで保護しますので」
しばらく言い争ったのち、忍さんが通話を終える。
「紬ちゃん、終わったよ。ここに居ていいんだよ」
その言葉にほっとして、緊張から一気に解れる。
「おい」
腰が抜けてぺたんとへたり込む。
「ごめん。安心して腰抜けちゃった」
「仕方ないな」
そう言うと高野君は私を持ち上げた。抱き上げたと言うよりは、持ち上げた。
背の高い高野君に両脇を抱えられて、足がぶらーんとなる。
「ちょっと幹人。そんな子猫を抱くみたいに紬ちゃんを持ち上げないの」
楓さんが呆れたように言う。
「猫みたいなもんだろ。ちっこいし」
足をぶらぶらさせながら、ちょっと移動してソファに座らされる。
「紬ちゃん、大丈夫?」
花織さんが膝をついて顔を覗き込む。
「はい。あの、ありがとうございます。母はなんて?」
忍さんに問いかける。
「ちょっとお話ししただけだよ」
微笑みがちょっと怖い。
優しい人の静かな怒りって感じ。
「すみません」
迷惑掛けてばかりだな。
「紬ちゃんはなんも悪くないよ。謝らないで?」
「そうよ。今までよく頑張ってきたわ」
忍さんと楓さんが言う。
生きるのに必死だったけど、頑張った自覚はないから、そう言ってもらえるとなんだか自分が誇らしく思えてくる。
「今日はゆっくり休んで。着替えとか教科書は明日花織と幹人が取りに行く手はずだから」
「いえいえそんな! 自分で取りに行けますよ!」
「だめよ。危ないから幹人に任せなさい」
「でも」
「でももだってもねぇ。黙って待機してろ」
高野君にぴしゃりと言われてしまう。
「必要なものリストアップしとけ」
「……はぁい」
しばらく休んだおかげで立てるようになり、和室へ通される。
「ゆっくり休んでね」
楓さんに布団を敷いてもらった。
「ありがとうございます」
布団が柔らかい。いつもはフローリングに直で寝ていたから、温かい布団で眠れる幸せったらない。
高野君のお家は何もかもが温かいな。
ご飯も。お風呂も。お布団も。それにみんな優しい。
初めて、温かい眠りについた。




