第9話 「無断の再訪」
「今は、やめておけ」
梓澪の声が頭の中で繰り返し再生される。
三日、大人しくしていた。だが、大人しくしているだけでは、何も進まない。
颯太は、大学帰り、電車を乗り換えた。行き先は、新宿。
当てずっぽうではなかった。トリガーは、日常に紛れ込んだ違和感だと、梓澪は言っていた。だとすれば、"あの新宿"に一番近い場所――物理的にあの鳥居があった座標に、今、実際に立てば。違和感の起点そのものに身を置けば、繋がりやすくなるはずだ。颯太なりの、根拠のある賭けだった。
梓澪の忠告を無視することへの罪悪感は、確かにあった。だが、それ以上に、じっとしていられなかった。美咲を救えるかもしれない、という可能性を知ってしまった今、悠長に"頭を冷やす"時間の使い方が、颯太には分からなくなっていた。
夕方の新宿駅は、いつも通り、人で溢れていた。
改札を抜けた瞬間、人波に押し流される。誰も、颯太を見ない。誰も、颯太を避けない。ただ、それぞれの目的地に向かって、流れの一部として歩いていく。
この中の誰か一人が、明日には死んでいるかもしれない。誰かが、誰かに強い殺意を抱いているかもしれない。誰かが、もう何年も前から、人間ではない何かにすり替わっているかもしれない。
そう考えると急に、足元が崩れるような感覚に襲われた。
これだけの数の人間が、これだけの密度ですれ違いながら、誰一人として、隣を歩く他人の"中身"を知らない。幽霊が紛れていても、誰も気づかない。悪意を抱えた誰かが微笑んでいても、誰も気づかない。むしろ、気づかないことこそが、この街の日常そのものだった。
明るくて、騒がしくて、24時間、誰かが起きている。それなのに、あるいは、だからこそ——この街は、どこかが決定的に狂っている。初めて、そのことに、はっきりと気づいた。
この人混みのどこかに、颯太が見た"誰もいない新宿"の萌芽があるのだとしたら。
記憶を頼りに歩いた。あの日、彷徨った道筋。スクランブル交差点。路地。ビルの隙間。
同じ場所のはずなのに、何もかもが違って見えた。人がいるだけで、こんなにも別の街に見える。ネオンの光、雑踏の喧騒、行き交う人々の話し声——全てが、あの夜の静寂と、対極にあった。それなのに、両方とも、確かに同じ新宿だった。
路地の奥、あの赤い鳥居があったはずの場所。
今は、ただの雑居ビルの搬入口があるだけだった。段ボールが積まれ、猫よけのペットボトルが並んでいる。
当たり前だ。分かっていたことだった。それでも、颯太の胸の奥に、鈍い落胆が広がる。
半分予想していたとはいえ、実際に目の当たりにすると、期待していた自分が、急に滑稽に思えてくる。何を求めて、ここまで来たのか。あの夜のように、何かが起きるのを、心のどこかで待っていたのかもしれない。
目の奥に僅かな熱。今までの鋭い痛みとは違う、湿った疼き。
その場に立ち尽くした。
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、視界の端で、何かが動いた。
搬入口の暗がり。誰か、しゃがみ込んでいる。会社帰りらしいスーツ姿の男が、うずくまって、動かない。
「大丈夫ですか」
声をかけたが、反応がない。恐る恐る近づく。
男が顔を上げた。
その目に、光がなかった。瞳孔が開き切ったまま、颯太を見ているのに、颯太を見ていない。表情は、何かに耐えるように歪んでいる。
「――は、や、く」
掠れた声。人の言葉のようで、微妙に、輪郭がずれている。まるで、発声の仕方を忘れかけているような。
目の奥の熱が急激に強くなった。
後ずさる。この人は、何かがおかしい。決定的に、何かが。
「はやく、かえら、な、いと」
男の指先が震えながら伸びてくる。爪の色が、不自然に黒ずんでいた。
これは、人間なのか。それとも、もう人間ではない、何かなのか。
颯太には、判断がつかなかった。
「――だれか、たすけて、くれ」
男の声が、懇願するように震える。だが、伸びてくる指先の動きは、まるで獲物を捕らえようとするそれだった。
動けなかった。助けるべきか、逃げるべきか。判断の天秤が、揺れ続けている。
その時。
颯太の懐で、何かが震えた。
あのお守りだった。
温かさがいつもと違う。まるで、危険を報せるように、脈打っている。
反射的に一歩、下がった。
その瞬間、男の姿が掻き消えた。
ただの搬入口の暗がりが、そこにあるだけだった。段ボールも、ペットボトルも、何一つ動いていない。
荒い息を吐きながら、周囲を見回す。
誰も、颯太の異変に気づいていない。行き交う人々は、いつも通り、スマートフォンを見ながら通り過ぎていく。
震える手で、お守りを握りしめた。
――今のは、何だったのか。
人間だったのか。何か別のものだったのか。それとも、その両方だったのか。
梓澪の言葉が今になって、重く響いた。
"今は、やめておけ"。
その場から動けないまま、しばらく立ち尽くしていた。
帰りの電車の中、窓に映る自分の顔を、ぼんやりと眺めていた。
あの男の声が、耳の奥にこびりついて離れない。助けを求める声と、獲物を狙う指先。二つが、同じ体の中に同居していた。人間なのか、そうでないのか、颯太には最後まで判断できなかった。
もし、梓澪が言っていた通りだとしたら。颯太自身が、あの"ズレ"を引き寄せていたのだとしたら。あの男は、颯太がいたから、そこに現れたのかもしれない。
その可能性に思い至った瞬間、背筋が冷たくなった。
自分は、ただ美咲を助けたい一心で動いているつもりだった。だが、その行動が、無関係な誰かを、危険に晒しているとしたら。
電車が揺れる。颯太は吊り革を強く握りしめた。
梓澪に、今日のことを話すべきだろうか。それとも、また怒られるだけだろうか。
答えの出ないまま、電車は颯太の街へと近づいていった。
ホームに降り立った時、辺りはすっかり暗くなっていた。街灯の明かりが、いつもより弱々しく見える。
ポケットの中、二枚の札の感触を、指先で確かめた。今日は、結局、どちらも使わなかった。使う場面がなかったのか、それとも、使う勇気がなかったのか、颯太自身にも判然としなかった。
次に梓澪と会う時、今日の出来事を、正直に話そう。そう決めた。
叱られるだろう。それでも、隠し続けることの方が、もっと恐ろしい気がした。




