第8話 「応答」
引き出しの奥から、あの紙切れを取り出した。
梓澪の手書きの図。「危ないと感じたら、これを描け」——そう言われた。
危なくは、ない。少なくとも、今この瞬間は。
だが、これを使えば、梓澪と繋がる手段を、颯太自身が握ることになる。緊急用だと言われた道具を、緊急でもないのに使う。それがどれだけ迷惑なことか、想像はついた。それでも、他に方法が思いつかなかった。連絡先も知らない。次にいつ会えるかも、彼女の気分次第でしかない。
このまま、ただ待つだけでは、何も進まない。
それでも、ペンを取った。
図を、白紙に写す。手が覚えているわけもないのに、なぜか迷いなく線が引けた。描き終えた瞬間、紙の中心が、ぼんやりと熱を持った気がした。
これで、届くのかどうかも分からない。
賭けだった。
三十分後、大学近くの児童公園に、電柱の影から声がかかった。
「――呼んだのは、お前か」
振り返ると、梓澪が立っていた。周囲を一瞥し、何もないことを確認すると、目つきが険しくなる。
「危険はない、みたいだな」
「すみません。他に、連絡する方法がなくて」
「これは、緊急用だ。呼び出しベルじゃない」
突き放すような声だった。だが、梓澪は立ち去らなかった。腕を組んで、颯太の出方を待っている。
公園には、他に誰もいなかった。街灯が一つ、ぶんぶんと羽虫を集めながら、二人の影を地面に長く伸ばしている。ブランコが、風もないのに、僅かに軋んだ音を立てた。
「話が、あるんです」
「手短にしろ」
一度、息を吸った。三日間、頭の中で繰り返し組み立ててきた言葉のはずなのに、いざ口にしようとすると、うまく形にならない。
「もっと、詳しく知りたいんです。この目のこと。あの夜、新宿がどうとか言ってたこと。全部」
梓澪の眉が僅かに寄る。
「前も言った。まだ話せない」
「なんで」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
声を荒げるつもりなどなかった。だが、三日間、誰にも打ち明けられずに抱え続けてきた不安が、抑えきれずに滲み出た。梓澪の反応を見て、颯太自身、少し驚いていた。
梓澪が初めて明確に、颯太の顔を正面から見た。値踏みするような目ではなく、探るような目。
「――お前、何かあったな」
答えられなかった。心臓が痛いくらいに鳴っている。表情には出していないつもりだった。だが、梓澪の目には、それすら見透かされているようだった。
「五日前と、目つきが違う。何かを決めた人間の顔だ」
図星だった。だが、口を開かなかった。まだ、言葉にできる段階ではない。
梓澪はしばらく黙って颯太を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「言っておく。急いでいい話じゃない」
「急いでる、なんて」
「顔に書いてある」
押し黙った。
「お前が何を急いでるのか、俺は知らない。だが——」
梓澪の声が一段低くなる。
「その手の"急ぎ"は、大抵、ろくな結果にならない」
颯太の心臓が冷たくなった。まるで、見透かされているようだった。
喉の奥まで出かかった言葉があった。美咲を救いたい。過去を変えられるかもしれない。そう打ち明けてしまえば、少しは楽になれるかもしれない。だが、それを口にする勇気は、まだなかった。梓澪がどう反応するか、想像するだけで足がすくんだ。
「教えてくれないんですか」
「全部は、無理だ」
梓澪はポケットから、あの紙とよく似た、しかし別の図が描かれた小さな札を取り出した。
「これは、渡しておく。前のより、少しだけ強い。使い方は――今度、時間のある時に教える」
「今度、っていつですか」
「俺の都合だ」
素っ気ない返事。だが、札を差し出す手は、拒絶しているようには見えなかった。
それを受け取る。紙の質感が、前のものよりわずかに硬い。指先に伝わる感触だけで、何か違いがあるのだと分かった。
「一つだけ、聞かせろ」
梓澪の声が僅かに硬くなった。
「お前が知りたいのは、"力の使い方"か。それとも——"何かを取り戻す方法"か」
息を止めた。
答えられなかった。答えれば、認めることになる。
沈黙こそが、何よりの返事だった。
梓澪はそれ以上何も聞かなかった。ただ深く、長く、息を吐いた。
「……そうか」
その一言には、呆れでも、怒りでもない、何か別の響きがあった。憐れみとも違う。もっと、経験に根差した何か。まるで、同じ道を通ったことがある人間だけが出せる、重たい相槌だった。
颯太には、それが何なのか、分からなかった。
「次に会う時までに、少しは頭を冷やしておけ」
梓澪は背を向けて歩き出す。
「梓澪さん」
足が止まる。振り返らないまま。
「……なんだ」
「新宿、行ってもいいですか。一人で」
長い沈黙があった。街灯の羽虫の羽音だけが、やけに大きく聞こえた。
「――今は、やめておけ」
それだけ言うと、梓澪は夜の中へ消えていった。
手の中の新しい札を見つめる。
インクの匂いは、前のものより僅かに強かった。
公園のブランコが、また一度、軋んだ音を立てた。誰も座っていないのに。
その音に、しばらく動けなかった。
ようやく歩き出したのは、街灯が二度、瞬いた後だった。
夜道を歩きながら、梓澪の言葉を、何度も反芻した。
――その手の"急ぎ"は、大抵、ろくな結果にならない。
彼女は、颯太が何を望んでいるのか、正確には知らないはずだった。それなのに、まるで見透かされているような、あの物言い。もしかしたら、梓澪自身も、かつて同じような衝動を抱えたことがあるのかもしれない。そう思うと、彼女の素っ気なさの奥にある何かが、少しだけ違って見えた。
新しい札をポケットの中で、指先で確かめる。
紙一枚の重みが今は、以前よりずっと重く感じられた。
頭を冷やせ、と言われた。だが、颯太の中の熱は、冷めるどころか、むしろ静かに燃え続けていた。誰にも気づかれないよう、表面だけを取り繕いながら。
自室に戻り、二枚の札を並べて、机に置いた。最初のものと、今日もらったもの。よく見比べると、線の太さも、記号の配置も、微妙に違う。素人目には分からない差異の中に、きっと意味があるのだろう。
いつか、その意味を、自分で読み解けるようになりたい。そう思う自分がいることに、颯太は少しだけ驚いていた。




