第7話 「可能性の輪郭」
梓澪から渡された紙切れは、机の引き出しの奥にしまってある。
あれから三日、連絡はない。当然だ。連絡先すら交換していない。それでも、心のどこかで、彼女からの連絡を待っている自分がいた。
颯太は講義にもろくに集中できないまま、ノートパソコンの画面を睨んでいた。文字は入力されず、カーソルだけが点滅している。
教授の声が遠くで音の羅列として流れている。周りの学生は、真面目にノートを取っている者もいれば、スマートフォンを机の下で弄っている者もいる。いつもと変わらない光景のはずなのに、颯太だけが、その空気から一枚、膜を隔てて浮いているような感覚があった。
頭の中で、繰り返し再生される光景がある。
夕焼け。児童公園。崩れ落ちる遊具。
あの日、美咲の腕を掴んで、彼女を守った。過去の中で、確かに何かを変えた。
あれから何度も、あの光景を反芻していた。だが、今日という日は、いつもと少し違った。単なる思い出として消費するのではなく、一つの"事実"として、頭の中で組み立て直そうとしている自分がいた。
どこかで、椅子が軋む音がした。何の変哲もない、講義室でよくある音。
なのに、その響きが、あの日の記憶と重なった。夕焼けの中、美咲の腕を引いた直後——背後で鳴った、遊具が軋んで崩れる、あの金属音と。
――待てよ。
キーボードから手を離した。
あれは、自分自身の意志で起きたことだった。無意識のジャンプではない。お守りに触れ、自ら望んで、あの扉を開いた。行き先を選べた訳ではない。それでも、辿り着いた先で確かに、あの瞬間を変えた。
変えられる。
過去は、変えられる。
心臓が大きく一つ、跳ねた。
だったら。
だったら、あの夜も。
夜、自室の電気を消したまま、ベッドに座っていた。
カーテンを閉め切っているのに、外の月明かりだけが妙に白く感じられた。
美咲が死んだ、あの夜。
記憶にない、あの数秒間。
もし、あそこに戻れるなら。
もし、あの瞬間の自分に、今の自分が入り込めるなら。
彼女の隣に立って、何が起きるより先に、腕を掴んで、あの日と同じように、違う道へ連れ出せるなら。
喉の奥が震えた。笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からなかった。
できる。
やれば、できるかもしれない。
美咲は死ななくて済むかもしれない。
両手で顔を覆った。指の隙間から漏れる息が、震えていた。三年間、一度も本気で考えることを許さなかった可能性が、今、初めて輪郭を持って目の前に立っている。
脳裏に、彼女との記憶が、次々と浮かんでは消えていく。河川敷での他愛のない会話。一緒に食べた、コンビニのアイス。彼女が笑う時、必ず右手で口元を隠す癖。何気ない日常の断片一つ一つが、今は、鋭い刃のように胸を抉ってくる。
美咲がいなくなってからの三年間、颯太はそれらの記憶に蓋をして生きてきた。思い出せば思い出すほど、失ったものの大きさに押し潰されそうになるからだった。だが今、その蓋が音を立てて外れていくのを感じていた。
あれを、全部、取り戻せるかもしれない。
その可能性が颯太の理性を、じわじわと侵食していく。
だが、同時に、頭の奥で、もう一つの声がした。
これは、本当に正しいことなのか。
過去を変えるという行為が、どれほどの意味を持つのか、颯太には想像もつかなかった。梓澪が言っていた"ズレ"――あれが、颯太の行動によって、無関係な誰かを危険に晒しているのだとしたら。もし、過去を変えることで、何か別の、もっと恐ろしい代償が発生するのだとしたら。
それでも、天秤は簡単に傾いた。
美咲を救えるかもしれない、というたった一つの可能性の前では、他の全ての懸念が色褪せて見えた。
窓の外で、羽ばたく音がした。
顔を上げる。
カラスが一羽、窓の外の電線に止まっていた。じっと、こちらを見ている。
目が合った瞬間、カラスは甲高く一声鳴いて、闇の中へ飛び去った。
右目の奥に、鈍い痛みが走る。今までの、危険を報せる熱とは違う。もっと深く、もっと重い、鉛のような疼き。
まるで、今考えたことそのものに、体が拒否反応を起こしているような。
その違和感を振り払うように、頭を振った。
気のせいだ。
そう思おうとした。だが、一度輪郭を持った希望は、もう消えなかった。
美咲を、救えるかもしれない。
この一つの可能性が、静かに、しかし確かに、根を張り始めていた。
その夜も、満月でもないのに、なかなか寝付けなかった。
天井を見つめながら、自問する。
これは、希望なのか。
それとも――
考えるのをやめた。今はまだ、考えたくなかった。
スマートフォンを手に取り、時間遡行、過去改変、といった単語を検索してみる。出てくるのは、SF小説の考察サイトや、都市伝説をまとめただけの怪しいブログばかりだった。求めている答えは、どこにもなかった。当たり前だ。こんなことを、まともな検索エンジンが答えられるはずがない。
それでも、藁にもすがる思いで、指を動かし続けた。似たような体験談がないか。オカルト系の掲示板を、片っ端から開いていく。だが、出てくるのは、明らかな創作か、あるいは颯太の体験とはまるで質の違う、他愛のない怪談ばかりだった。
画面を閉じる。
ただ、一つ確かなことがあった。
もう後戻りする気はない。梓澪に、もっと詳しく聞かなければならない。この力の使い方も、あの紋様の意味も。美咲が、本当は何を隠していたのかも。
知らなければならないことが、山ほどある。
暗闇の中で、静かに拳を握った。
いつの間にか、外が白み始めていた。一睡もしないまま、朝を迎えていた。
体は疲れているはずなのに、頭の芯だけが、妙に冴えている。まるで、長い迷いの果てに、ようやく一つの方向を見定めたような、奇妙な静けさが、胸の内に広がっていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日を見つめながら、颯太はゆっくりと立ち上がった。
もう、迷っている段階ではない。梓澪に、次に会った時――いや、会えないなら、こちらから動くしかない。そう心に決めていた。
鏡に映る自分の顔は、まだ青白かった。それでも、目の奥には、これまでとは違う静かな光が確かに灯っていた。




