第6話 「梓澪」
あの夜以来、鏡を見る回数が増えた。
右目。黒目の色も、白目の充血も、他人と変わらない。それでも、鏡の中の自分と目が合うたび、皮膚の下で何かが息をひそめているような感覚が消えない。
「アズサミオ」で検索しても、何も出てこない。当然だ、とも思う。姓なのか名なのかも分からない。
あの紋様のことも、頭にこびりついたままだった。
刺青、と自分で言った。だが、あれは刺青にしては、光り方がおかしかった。皮膚の下に、何か別のものが埋め込まれているような、あの一瞬。
答えの出ない疑問を抱えたまま、五日が過ぎた。
その五日間、颯太は以前とは明らかに違う生活を送っていた。
人混みの中を歩くたび、無意識に周囲を確認する癖がついた。すれ違う人の顔を、必要以上に見てしまう。何かが、また起きるんじゃないか。そう思うと、電車の窓に映る自分の影にすら、身構えるようになっていた。
友人からの誘いは、二回断った。理由をつけるのも、億劫になっていた。
夜、眠るのが怖い。だが、眠らないでいることも、体力的に限界がある。矛盾を抱えたまま、ただ日々をやり過ごしていた。
その日、大学からの帰り道、いつもと違うルートを選んだ。理由はない。ただ、なんとなく、遠回りをしたい気分だった。
日が落ちるのが、早くなっている。街灯の間隔が広い路地は、夕方でも既に薄暗い。
路地を抜けたところで、足が止まった。
電柱にもたれて、女が立っていた。
街灯の逆光の中、長い黒髪だけが輪郭を持っている。梓澪だった。
「……偶然、ですか」
「いや」
即答だった。抑揚のない声が、路地の静けさに沈む。
「お前を探してた」
無意識に一歩、後ろへ体重を移した。何のために、と聞く前に、梓澪が続ける。
「五日前のあれ、まだ気になってる」
視線が颯太の右目のあたりに固定される。値踏みするような、解剖するような目だった。
「お前がいた場所だけ、術の通りが悪かった。あんな経験、初めてだ」
「俺のせい、ってことですか」
「断定はしてない。だが、無関係とも思えない」
梓澪は返事を待たずに歩き出す。ついてこい、とも言わない。少し先で足を止め、振り返るだけだった。
「時間、あるか」
連れて行かれたのは、駅裏の古い喫茶店だった。蛍光灯が一本、微かに点滅している。客は他に誰もいない。カウンターの奥、無口な店主が、颯太たちには一瞥もくれず、グラスを磨いていた。
梓澪は迷わず、一番奥の、出入口が見える席に座った。その正面に腰を下ろす。古いビニールレザーの椅子が、体重をかけるたびに小さく軋んだ。
運ばれてきたコーヒーは、颯太の分だけだった。梓澪は水すら頼まなかった。
「話す前に、聞く」
テーブルの木目を、指先でなぞりながら。
「変わったことはないか」
「変わったこと」
「目が熱くなる。妙な胸騒ぎがする。理由もなく、何かを避けたくなる。そういうことだ」
喉が詰まった。全部、当てはまっている。
答えられない沈黙が、回答になったらしい。梓澪の口の端が僅かに歪んだ。笑いではない。諦めに近い何か。
「やっぱりか」
「……あなたは、何なんですか。あの時のあれも、この前の紋様も」
梓澪の指先がテーブルの上で一瞬だけ止まる。
「言えることと、言えないことがある」
そっけない声。だが、突き放すような響きではなかった。
「一つだけ言っておく。お前がいた場所で、術の効きが悪くなる現象——これは普通じゃない。放っておけば、お前自身が危険になる」
「危険って」
「夜みたいな"ズレ"を、お前は無意識に引き寄せてる可能性がある。次に何かに遭遇したとき、俺が近くにいるとは限らない」
背筋を冷たいものが這い上がった。
コーヒーカップに手を伸ばしかけて、やめた。手が微かに震えているのが、自分でも分かった。
「俺は……どうすればいいんですか」
「知らん」
あまりにもあっさりとした返答に、思わず梓澪の顔を見た。彼女は、視線を逸らさなかった。
「今のお前に教えられることなんて、ほとんどない。お前自身、何も分かってないんだからな」
厳しい言葉だった。だが、そこに悪意は感じなかった。むしろ、事実だけを淡々と告げている、という響きだった。
「だから」
梓澪は鞄から一枚の紙切れを取り出し、テーブルに滑らせる。手書きの、簡素な図。中心に円、そこから伸びる線と、見慣れない記号のようなもの。
「最低限、これだけは覚えとけ。危ないと感じたら、これを描け。役に立つかは知らないが、何もしないよりはマシだ」
「教えてくれるんですか」
「教えてるわけじゃない。放っておくと面倒なことになりそうだから、応急処置をしてるだけだ」
言葉は突き放しているのに、紙を滑らせる指先は、妙に丁寧だった。
それを両手で受け取る。図の線を、指先でなぞってみる。何の変哲もない、ただの線の集まりに見えた。だが、触れた瞬間、微かに、指先がぴりっと痺れた気がした。気のせいかもしれない。
「――ありがとう、ございます」
返事はなかった。梓澪は窓の外の暗がりに目をやっていた。
「新宿の話、覚えてるか」
「はい」
「まだ詳しくは話せない。だが、いずれお前も、無関係じゃいられなくなる」
心臓が大きく跳ねた。
「どういう意味ですか」
梓澪は席を立つ。椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
「今はまだ、その時じゃない」
それだけ言って、彼女は喫茶店を出ていった。
自動ドアが閉まる音の後、しばらく動けなかった。
手の中の紙切れから、微かにインクの匂いがした。
その図を、何度も見返した。理解できるはずもないのに、目が離せなかった。
やがて、店主が、無言でカウンターの向こうから、水のグラスを一つ、颯太の前に置いた。それだけで、何かに気遣われたような気がして、小さく頭を下げた。
冷えたコーヒーを、一口だけ飲んだ。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。梓澪の言葉が頭の中で、何度も繰り返し響いていた。
――いずれお前も、無関係じゃいられなくなる。
その"いずれ"が、いつなのか。颯太には、知る術がなかった。
ただ、確かなのは、もう後戻りできる場所にはいない、ということだけだった。




