第5話 「刺青の女」
二週間が経った。
颯太は大学に戻っていた。母には、もう体調は平気だと伝えてある。
平気ではなかった。
大教室の後方、スライドの文字が、時々、輪郭を溶かして滲む。焦点を合わせ直すたびに、右目の奥に鈍い圧がかかる。ノートパソコンに打ち込む文字は、後半になるほど支離滅裂になっていた。
教授の声も時折、遠くから届くように聞こえる。集中しようとするほど、意識が別のところへ引っ張られていく感覚があった。
隣の席、名前も覚えていない顔見知りが、スマートフォンから顔を上げずに言った。
「颯太、目、なんか赤くない?」
友人の何気ない一言に、颯太は内心、動揺を隠すのに必死だった。
「寝不足」
それだけ返す。相手はすぐに興味を失い、また画面に視線を戻した。
嘘ではない。ただ、寝不足の理由までは言えなかった。
講義が終わると、寄り道をした。真っ直ぐ帰る気になれない日が増えている。足は自然と、河川敷へ向かう。
土手の草は、伸び放題だった。夕方の風が吹くたびに、乾いた音を立てて波打つ。遠く、対岸の工場の明かりが、水面に細く伸びていた。
この道を、何度も美咲と歩いた。今はもう、隣に誰もいない。
当時は気づかなかった。何気ない散歩道だと思っていたこの場所が、実は、何か特別な意味を持つ土地だったのかもしれない。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
土手の中腹で足を止めた。
匂いがした。
草の匂いでも、川の匂いでもない。もっと鉄に近い、湿った匂い。
右目の奥がぎりっと軋んだ。今までのどの疼きより、鈍く、重い。
草むらの一角――風もないのに、そこだけ穂先が右へ左へ揺れている。まるで、地面の下で何かが身をよじっているように。
颯太の足が後ろへ下がる。頭の中で、逃げろ、と誰かが叫んでいる。
草が、割れた。
出てきたのは、輪郭のない何かだった。人の形をなぞろうとして失敗したような、歪な影。腕らしきものが伸び、指らしきものが空を掻く。声にならない音――風とも呻きともつかない、耳の奥にまとわりつく音が、そこから漏れていた。
夕暮れの薄闇の中、その輪郭だけが、異様にはっきりとしていた。まるで、周囲の景色から、そこだけ切り取られたかのように。
違う。
見間違いだ。夕暮れの逆光と、疲れた目が作った、ただの錯覚。そう思おうとした。思おうとする傍から、影は輪郭を保ったまま、確かにそこにあり続けた。
錯覚は、消えない。消えないものは、錯覚ではない。
「――離れて」
颯太の肩が後ろから強く引かれた。突然のことに、声を上げる間もなかった。
女だった。長い黒髪を風になびかせ、颯太を庇うように前へ出る。片手に小さな鈴。もう片方の手の指が、素早く組み合わされていく。
「陰陽和合、五行順行――急急如律令」
鈴が一度だけ高く鳴った。
その瞬間、女の首筋から肩にかけて、何かが赤く滲んだ。
「――刺青……?」
思わず声が漏れた。刺青のような、紋様のようなもの。髪に隠れて全貌は見えないが、確かに光っていた——脈打つように、一瞬だけ。
それが何なのか、考える間もなかった。
影が、輪郭を失いかける。溶けかけた蝋のように、輪郭が滲む。
消える。颯太がそう思った、次の瞬間。
影は、見えない壁に押し返されたように、急激に元の形を取り戻した。今度は、さっきより一回り大きい。
女の背中が微かに強張った。
「――は」
声にならない声。颯太には、彼女の表情は見えない。ただ、背中の緊張だけが伝わってきた。
その一瞬、颯太の直感が、奇妙なものを拾った。この女は、命のやり取りに慣れているだけじゃない。もっと具体的な、何か大切なものを、既に一度失ったことがある人間の気配だった。
根拠はない。それでも、そう感じた。まるで、彼女自身の過去に、颯太の知らない重い記憶があるかのように。
影の"腕"が、獲物を狙う蛇のように、音もなく持ち上がる。狙いは、女の方だった。
颯太の目の奥が燃えるように熱くなった。今までのどの瞬間よりも強く。景色の輪郭が、一瞬、赤く滲んで見えた。
「――動くな!」
声が喉から引きずり出されるように出た。
女の体がその場で凍りつく。
直後、影の"腕"が唸りを上げて空を薙いだ。彼女が一秒前まで立っていた場所を、正確に。
もし颯太が叫んでいなければ。
颯太自身、そこから先を考えたくなかった。
女は、崩れた体勢のまま、もう一度指を組み直した。今度は、さっきよりずっと長い所作。低い声で、聞き取れない言葉を連ねながら、鈴を三度鳴らす。
影が、悲鳴とも呻きともつかない音を残して、闇に溶けていった。
夢なら、覚めるはずだった。
覚めない。土手の草の匂いも、震える指先の感触も、何一つ消えない。これが現実だと、ようやく認めるしかなかった。
――こんな理不尽が、本当にこの世界に存在しているのだと。
しばらく、風の音だけがあった。
女がゆっくりと振り返る。頬に、汗が一筋。息は、まだ整っていない。
鋭い目だった。感情を押し殺した、静かな目。颯太より、少し年上だろうか。
女は颯太を上から下まで、値踏みするように見た。
その視線には、警戒とも、興味とも取れる何かがあった。少なくとも、颯太を単なる巻き込まれた被害者として見ているわけではなさそうだった。
颯太は何も言えなかった。逃げ出したい気持ちと、逃げてはいけない気がする感覚が、同時に体を縛っていた。
「……名前」
短い問い。
「颯太」
女はそれ以上何も聞かなかった。ただ、颯太の目を——正確には、目の奥の何かを見透かすように、しばらく見つめていた。
「梓澪」
名乗ると、女は颯太に背を向けた。
「待って」
女の足が止まる。振り返らないまま。
「今の、何だったんですか」
「知らなくていい」
素っ気ない声。だが、数歩進んだところで、もう一度足が止まった。
独り言のように、低く。
「……新宿の方も、最近、様子がおかしい」
「新宿?」
颯太の心臓が跳ねる。あの赤い鳥居、無人の交差点、名前を呼んだ人影。全てが、一気に脳裏に蘇った。
女はもう振り返らなかった。夜の土手を、迷いのない足取りで歩き去っていく。
颯太はしばらくその場を動けなかった。
右目の奥に、まだ熱が残っている。この感覚に、少しずつ慣れ始めている自分が、少し怖かった。
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