第4話 「希望の欠片」
猛烈な吐き気を抑え込むように、机に突っ伏したまま、しばらく動けなかった。
握りしめたお守りが汗で湿っている。頬の涙は、もう乾き始めていた。
――まだ、堕ちるな。
誰の声だったのか。あの獣の声なのか、それとも、獣を通して誰か別の何かが喋ったのか。考えても、答えは出ない。
顔を上げ、時計を見た。数分しか経っていない。現実の時間は、ほとんど進んでいなかった。
ふと窓の外を見る。暗い夜だ。星は見えない。曇っているのか、それとも別の理由か。
次の日、大学に行く気になれなかった。母には風邪だと嘘をついた。
部屋にこもって、あのメモをもう一度読んだ。
(――逸脱、確認。対象は二名。うち一名は――)
(もう一名は、たぶん――)
二名。
その言葉を、もう他人事として読めなくなっていた。
あれから起きる突然すぎるいくつかの夢の正体は。そして、あの獣。
一体何が繋がっているのか、それとも別々の話なのか。判然としない。ただ、繋がっていないと考える方が、不自然に思えた。
新宿で、誰かに名前を呼ばれた。あれは、確か
思い出そうとする。喉のあたりまで出かかっているのに、声にならない。一文字だったような気もするし、もっと長かった気もする。まるで、思い出す端から溶けていくみたいに。
諦めて、代わりにスマートフォンで自分の名前と、幼少期に住んでいた地域の名前を組み合わせて検索した。指が勝手に動いた。
結果は、ほとんど出てこなかった。十数年前の小さな水難事故の記事が一件だけ。文字数は短く、当時の詳細はほとんど書かれていない。「近隣の子供二人が河川で溺れ、うち男児一人が意識不明の重体」颯太の名前は伏せられている。
もう一人については、何も書かれていなかった。
名前も、性別も、生死の記述さえも。検索結果の欠落した部分が、まるで意図的に切り取られた傷跡のように見えた。
まるで、最初からいなかったことになっているみたいに。
検索を諦め、画面を閉じる。
代わりに、窓の外を見た。
電線に、カラスが一羽。
それをじっと見つめる。理由もなく、そのカラスが他のカラスと違う気がした。
カラスは、颯太を見返しているように――そう感じるのは、颯太の気のせいかもしれない。
だが、カラスは颯太が目をそらすまで、微動だにしなかった。
三日目の夜、机の前に座り、お守りを手のひらに乗せていた。
あの晩以来、これに触れるたびに考える。
美咲は、これに何を込めた。
颯太を守るためだけに用意したものなのか。それとも、もっと別の――何か大きなものの、一部だったのか。
馬鹿げている。頭のどこかが、冷静にそう告げる。時間を移動する、お守りが鍵になる、そんなことが現実に起こるはずがない。三年間の喪失で、頭がどうかしてしまったのかもしれない。全部、都合のいい妄想かもしれない。
だが、あの晩に見た太鼓の音と、見たこともない色に光る空も、無人の新宿も、あの逆光の人影も――妄想と呼ぶには、あまりに鮮明すぎた。
信じたくない。信じたくないのに、頭では分かっているのに、体は意志とは反して導かれていく。
そして、目を閉じる。
これまでの体験は、全て颯太の意志とは無関係に起きていた。眠っている間に、勝手に。避けようもなく。
だが今夜は、違う。
初めて自分から、その扉を叩こうとしていた。狂気の沙汰だと分かっていて、それでも、止められなかった。
お守りを両手で包み込む。
温かさが指先から腕へと広がっていく。
心の中で、彼女の名前を呼んだ。
美咲。美咲。美咲。
温もりが強くなる。まるで応えるように。
颯太の意識が静かに沈んでいく。
今度は、抵抗しなかった。
――あの瞬間に、届いてくれ。
夕方の匂いがした。
金木犀の香りがする。どこか近くで、咲いているのだろうか。
目を開ける前に、それに気づいた。
瞼を開ける。夕焼けに染まった、見慣れた通学路。ただし、見慣れているというには、少し様子が違う。今よりも、街路樹が細い。信号機の型が、古い。
これは……過去だ。
何年前かは分からない。ただ、これが過去であることだけは、記憶が確信をくれた。
隣を見る。
美咲がいた。
制服姿の美咲。すこし幼い。それでも、颯太の知っている顔、知っている声のトーンで、彼女は喋っていた。
「――だから言ったじゃん、颯太。数学の宿題、写させてって言うなら、もっと早く言ってよ」
答えられなかった。声がうまく出ない。
これは、記憶なのか。それとも――
「颯太?」
美咲が怪訝そうに颯太の顔を覗き込む。颯太は、慌てて頷いた。
「あ、ごめん。なんでもない」
声が出た。颯太自身の意志ではなく、まるで"あの日の颯太"が、勝手に喋っているような感覚だった。傍観者のまま、体だけがその時間に馴染んでいく。
二人は、並んで歩く。夕陽が長く伸びて、二人の影を路面に描いていた。
この光景に見覚えがない。忘れていたのか、それとも――今、初めて颯太自身がここに"来た"のか。
通りの向こう、児童公園の前を通りかかったところで。
颯太の――過去の颯太の足が、不意に止まった。
「颯太?」
美咲が振り返る。
答えられなかった。目の奥にあの熱が来ていた。今の颯太にも、過去の颯太にも、同じように。
説明のつかない胸騒ぎ。公園の奥、ブランコのあたりから、何かが――
「美咲、こっち」
彼女の腕を掴んで、反対側の道へ引っ張った。
「え、ちょっと、なんで」
「分からない。分からないけど、こっちだ」
美咲は戸惑いながらも、颯太に従った。振り返らず、颯太は歩き続ける。
数十メートル進んだところで、背後――児童公園の方角から、金属がひしゃげるような音がした。次いで、悲鳴と、複数の声。
颯太と美咲は、同時に振り返る。
公園の遊具の一つが、原因不明の理由で崩れ落ちていた。誰かが、その下敷きになりかけている。周囲の大人たちが、慌てて駆け寄っていく。
もし、あのままブランコのそばを通っていたら。
美咲はしばらく無言だった。颯太を見る目がそれまでと違っていた。
「……颯太、今の、なんで分かったの」
「分からない。ただ、なんか、嫌な感じがして」
美咲は何か言いかけて、やめた。代わりに、じっと颯太の顔を見つめる。値踏みするような、それでいて、どこか興味を隠しきれないような目だった。
「……ふうん」
それだけ言って、美咲は歩き出す。颯太は、その背中を追った。
視界が、揺らぎ始める。
颯太の意識は、まだそこにいたかった。もう少しだけ、彼女の隣にいたかった。
だが、景色は容赦なく歪んでいく。
金木犀の匂いが、遠のいていく。
代わりに来たのは、静寂だった。
音という音が、一斉に消える。夕焼けも、彼女の声も、颯太の意志とは無関係に、遠く引き剥がされていく。
気づけば、自分の部屋の椅子に座っていた。
窓の外は、まだ夜だ。時計を見る。数十分しか経っていない。
手のひらの中、お守りはまだ温かい。ただ、さっきまでの熱よりは、幾分か落ち着いている。
目を擦った。
視界の端が、少しだけ滲んでいる。瞬きを繰り返しても、その滲みは消えない。まるで、そこだけ薄い膜がかかっているような。
それを深く気に留めなかった。疲れているのだろう、と思うことにした。
それよりも、頭の中を占めているのは、あの光景だった。
美咲の声。夕焼け。彼女の腕を掴んだ、あの瞬間の感触。
あれは、間違いなく本物だった。颯太の想像でも、都合の良い夢でもない。
確信する。
自分の直感は、本物だ。あの時も、そして――
颯太の手が止まる。
あの時、ちゃんと働いていた。だとしたら。
三年前のあの夜も、颯太の中の何かは、きっと反応していたはずだ。
なのに、なぜ。
お守りを強く握りしめた。
答えは出ない。ただ、確かめなければならないことが、また一つ増えた。




