第3話 「望まぬ遭遇」
三日経った。
眠ることが少し億劫に感じるようになり、食欲もない。なにより、鏡に映る自分の顔が、見るに堪えないほど青白い。その青白さに、吐き気を覚える。
大学の友人にも、何度か体調を心配された。適当に誤魔化してはいるが、いつまで誤魔化しきれるか分からなかった。自分でも、この不調の原因が分からないのだから、他人に説明できるはずもなかった。
あれからお守りは、肌身離さず持っている。大学にも、寝るときも。触れるたびに、あの温かさが颯太を落ち着かせた。
メモの続きは、まだ見つかっていない。蔵をもう一度探させてほしいと頼んだが、美咲の伯母は「もう業者に片付けを頼んだから」と、困ったように笑うだけだった。
夜、自室の勉強机で、あのメモの切れ端を睨んでいた。
(もう一名は、たぶん――)
何度読んでも、その先は分からない。
窓の外、雲が月にかかっている。今夜は満月じゃない。だから、あの夢は来ない――そう思っていた。
まだ机にしまえない多摩川で撮った美咲との写真に視線を落とした瞬間、瞼が急に重くなった。
眠るつもりなんてなかった。机に向かったまま、意識が沈んでいく。抵抗するすべもなかった。
土の匂いがした。
目を開ける。夜だ。あたりは真っ暗で、頭上には木々の枝が黒く重なっている。足元は、舗装されていない道。踏みしめると、湿った土の感触。
街灯は、ない。
代わりに、遠くにぽつぽつと、橙色の灯りが揺れていた。提灯だ。
立ち上がる。着ている服は、いつもの自分の服のままだ。周囲だけが、まるごと別の時代に取り残されたように違う。
山道、らしい。両側に木々が迫り、道は緩やかに上っている。
湿った土と、腐葉土の匂い。それに混じって微かに、獣の体臭に似た生々しい匂いが鼻をかすめる。夜露が、頬を冷たく湿らせていく。
異常な状況にもかかわらず、颯太の足は不思議と戸惑うことなく歩き出した。
どれくらい歩いただろう。
背後で、枝が折れる音がした。
振り返る。何もない。ただの闇。
また歩き出す。
目の奥に熱が来た。
蔵で感じたのと同じ、あの感覚。今度は、最初から強い。
足を止めた。息を殺す。
聞こえる。
自分の足音以外に、もう一つ。少し遅れて、同じリズムで。
颯太が歩けば、それも歩く。颯太が止まれば、それも止まる。
規則的すぎる、その反応がかえって恐怖を増幅させた。人でも獣でもない、何か明確な意志を持ったものが、颯太の一挙手一投足を注意深く観察している。
振り返っても、何も見えない。木々の隙間、闇の中に、何か大きな影が動いた気がした。犬、にしては大きすぎる。狼、にしては――
駆け出した。
背後の足音も、速度を上げる。
息が上がる。心臓が喉のあたりまで迫り上がってくる。目の奥の熱が痛みに変わっていく。
前方の灯りを目指す。提灯の灯りが、少しずつ近づいてくる。
躓いた。
石か、木の根か。颯太の体は前のめりに崩れる。倒れる、と覚悟した瞬間――
背後の足音が、止まった。
地面に手をついたまま、動けなかった。土の冷たさと、掌に食い込む小石の感触だけが、やけに鮮明だった。
振り返る勇気が、出なかった。
しばらくの間、何の音もしなかった。颯太の荒い呼吸だけが、闇の中に響いている。
恐る恐る顔を上げた。
目の前、数メートルの距離に、それはいた。
犬のような、獣のような、輪郭がはっきりしない何か。目だけが、碧く光っている。
動けない。目の奥の熱が限界まで来ている。頭が割れそうだ。
それは、颯太を見ていた。ただ、じっと。襲ってくる気配はない。かといって、去る気配もない。
この静寂の中、颯太と獣、二つの存在だけが、山道の真ん中で向き合っている。周囲の木々でさえ、息を潜めているような、そんな緊張感があった。
震える声で、それでも口を開いた。
「……お前は、何なんだ」
答えは返らない。ただ、碧い目が、僅かに細まった――ように見えた。
ゆっくりと立ち上がる。逃げても、追われるだけだ。それなら、進むしかない。
一歩、踏み出す。
それは、動かなかった。
もう一歩。
やはり、動かない。ただ、颯太が通り過ぎるのを、待っているみたいに。
それの横を通り過ぎた。心臓が耳の奥で鳴っている。
通り過ぎた瞬間、颯太の耳元で、低い声がした。
「――まだ、堕ちるな」
振り返る。あの声の主を、一目でいいから確かめたかった。
そこには、もう何もいなかった。
震える足で、提灯の灯りに向かって歩き続けた。
悲鳴が耳の奥に張り付いていた。
獣のものか、人のものか、それとも颯太自身が上げた声だったのか、判別がつかない。
心臓がまだ激しく脈打っている。夢だと分かっていても、体はまだあの山道にいるかのように緊張したままだった。
瞬きをする。自分の勉強机に突っ伏していた。
時計を見る。数分しか経っていない。
手のひらに、あのお守りを強く握りしめていた。汗で湿っている。
自分の頬に触れる。濡れている。いつの間にか、泣いていたらしい。
――まだ、堕ちるな。
あの声が、耳の奥に残っている。
誰の声だったのか、颯太には分からない。だが、その声には、脅すような響きはなかった。むしろ、どこか、案じるような温度があった気がした。
ただ、あの碧い目をした獣は、颯太を殺そうとはしなかった。
それだけは、確かだった。あの一瞬の静止――颯太を通り過ぎさせた、あの間には、何か意味があったはずだ。
それでも、耳の奥のどこか、声にならない場所で、何かがずっと囁き続けている気がした。まるで、知らない誰かに待たれているような、居心地の悪い感覚。それが何なのか、一体何が起きているのか、何がこれから起きるのか、分からないまま、颯太は力いっぱいにお守りを握りしめていた。
窓の外、雲の切れ間から、月明かりが、僅かに差し込んでいた。今夜は満月ではないはずなのに、その光は、やけに白く、鋭く感じられた。




