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因果のカレント  作者: BNG
第1章 因果の目覚め

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第2話 「繊細な確信」

線香の匂いが微かに残っていた。


髪か、それとも脱ぎ捨てたままの喪服か。瞼を開ける前に、鼻が応えた。


不快な湿気がまとわりつく暗い雨。


カーテンの隙間から入るのは、朝の光ではなく、灰色の重い明かり。窓ガラスを、雨粒が絶え間なく叩いている。頭の芯が重い。丸一日分の疲労を、寝ている間に押し込まれたような重さだった。


体を起こそうとして、腕に力が入らないことに気づいた。まるで何か重いものに一晩中のしかかられていたかのような、そんな倦怠感だった。


スマートフォンを手探りで探す。画面をつけて、まず日付を確認する。


三回忌の、翌朝。


当たり前だ。当たり前のはずなのに、安堵と違和感が同時に来た。


夢を見た気がする。いや、夢と呼ぶには、何かが違う。


カーテンを開ける。灰色の空。電線にカラスが並んでいた。今まで数えたことなどないが、いつもよりずっと多い。じっと動かず、雨に打たれながら、颯太の部屋のほうを向いている――ように見えた。


一羽も鳴かない。羽ばたきもしない。ただ、黒い塊が等間隔に並んでいるだけだった。まるで、誰かが意図的に配置したみたいに。


見られている。


根拠のない感覚だったが、拭えなかった。


布団から出ようとして、自分の足を見た。靴下の裏が汚れている。乾いた泥。昨夜、法要の後に手伝ったのは蔵の片付けだ。境内は綺麗に掃除されていた。こんな汚れがつく場所は、どこにも歩いていない。


記憶を辿る。法要。蔵。メモ。夜、布団に入って。


そこから先の記憶が、極端に薄い。フィルムの一部だけが焼け落ちたみたいに。


思い出そうとするたび、頭の奥で鈍い痛みが走った。まるで、これ以上踏み込むなと、体そのものが警告しているようだった。それでも、断片的な光景だけは、確かに残っている。


美咲と河川敷にいた。花火の音。彼女の顔。何かを叫んでいた。


新宿。誰もいない交差点。


赤い、鳥居。


誰かに名前を呼ばれた。自分の名前ではない何かを呼ばれた。


その響きだけが耳の奥にはっきりと残っている。だが、言葉として思い出そうとすると、指の間から零れる砂のように、すり抜けていった。


思い出そうとするほど、輪郭がぼやけていく。


スマートフォンが震えた。母からの着信履歴、三件。昨夜のうちに、時間を空けて。


折り返す前に、もう一度靴下の裏の泥を見た。


遠くで、雷が鳴った。



「颯太、あんた昨日、法要の後どこ行ってたの。連絡もつかなくて」


台所で、母が茶碗を並べながら言う。責める口調ではない。ただ、心配していた声だった。窓の外、雨脚が強くなっている。


「……ごめん。ちょっと、その辺歩いてた」


嘘をついている自覚はあった。だが本当のことを言おうにも、颯太自身、何が本当だったのか分からない。


「携帯、電源切れてたわよ」


「うん、途中で切れてたみたい」


だとすれば颯太が"どこかにいた"のは、深夜のどこかの時間だ。だが母の話では、連絡がつかなくなったのは、もっと早い時間帯だったという。


時間の感覚が噛み合わない。何度、記憶を辿り直しても、その空白を埋める手がかりは見つからなかった。まるで誰かに意図的に記憶の一部を切り取られたような感覚だった。


窓の外で、また雷が鳴った。今度は、少し近い。


朝食に手をつける気になれず、自分の部屋に戻った。



部屋の電気をつけていない。雨のせいで、昼間でも薄暗い。カーテンの隙間から、灰色の光だけが差し込んでいる。


上着のポケットに、あのメモの切れ端が入ったままだった。昨日、蔵で見つけた、美咲の字の判読できない断片。


机の上に広げる。


(――逸脱、確認。対象は二名。うち一名は――)


(もう一名は、たぶん――)


読めない部分に、指先を這わせる。


もう一名。


この言葉が、やけに胸に引っかかった。


部屋の隅の段ボール箱に目をやった。


美咲の私物。彼女の母から「颯太くんが持っていて」と渡されたまま、三年、開けていない箱だ。


この三年間、その箱は、部屋の隅で、ただの記憶のように存在していた。中身を確かめることすら、怖かった。それなのに今は、指先が勝手にそちらへ引き寄せられていく。


指先が疼く。


理由はない。ただ、箱の中に何かがある。今なら、分かる。


箱の前に膝をつき、蓋を開けた。


ノート。文房具。よく着けていたイヤリング。一つずつどけていく。手が止まったのは、一番下だった。


布に包まれた、小さな塊。お守りだった。


神社で売っているような量産品じゃない。不格好な、手縫いの袋。中に硬いものが入っている。刺繍の模様は、颯太の知っている神社のどれとも違う。


手に取った瞬間、息を止めた。


温かい。布越しに伝わるにしては、明らかにおかしい熱だ。


それだけじゃない。熱から伝わった何かが分かった時、涙があふれてきた。


これは、美咲だ。


根拠なんてない。ただの布と、中に何か入った塊でしかない。それなのに颯太の指先は、確かに彼女の手を握っているような錯覚を起こしていた。彼女の癖のある字。彼女の笑い方。彼女が颯太の名前を呼ぶときの、あの少し低い声。全部が、この小さな重みの中に押し込められている気がした。


三年間、開けられなかった箱を、こんな形で開けることになるとは、思ってもみなかった。もっと早く開けていれば、何かが変わっていたのだろうか。詮無い問いが、頭の中を巡った。


それを両手で包み込んだ。


その瞬間、カーテンの隙間から差す光が、少しだけ強くなった。


偶然かもしれない。それでも颯太には、まるでお守りがその光に呼応したように感じられた。


窓の外を見る。雨は、まだ降っている。それでも雲の切れ間から、一筋だけ、光が差していた。カラスは、いつの間にか電線からいなくなっていた。


手放してはいけない。


誰に言われたわけでもない。それでも、確信だけが揺るがずにそこにあった。


理由は、まだ言葉にできない。ただ、それだけは分かった。




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