第1話 「赤い鳥居」
線香の匂いに、三年経っても慣れない。
むしろ年々息苦しさは強くなっている。嗅ぐたびに、体の同じ場所がちくりと疼く。
今日は朝から憂鬱な曇天で、境内の空気が湿っている。それがまた匂いを重くしている。
「颯太くん、久しぶりね」
黒い着物の裾をさばきながら、美咲の伯母が近づいてくる。
三回忌の法要は思っていたより人が多かった。親族。近所の人間。それから、颯太が名前も知らない、美咲の家系にしか分からない繋がりの人たち。
この神社の宮司の一人娘、その法要に、こんなに人が来るものかと、颯太は少し驚いていた。三年も経つと、不思議なほど冷静にその光景を眺めている自分がいた。
「はい。……ご無沙汰してます」
声が思ったより平坦に出た。悲しくないわけじゃない。
ただ、三年前のあの日ほど、喪失感に苛まれることはない。それが少し、怖い。
法要が終わり、参列者もまばらになったころだった。
「悪いけど、少し手伝ってくれないかしら」
少し言い淀んでから、静かに続けた。
「美咲の荷物も、そろそろ整理しなきゃならない。あの子が使っていたものが、まだ蔵に残っていてね」
通されたのは、本殿裏の蔵だった。
美咲が、生前よく出入りしていた場所だ。
埃をかぶった木箱。古い巻物。意味の分からない札の束。神社の記録や祭具が雑然と積まれた、半ば物置のような場所だった。
「颯太君の分かるもので、美咲のものがあれば、こっちに分けておいてくれないかしら」
一人、薄暗い蔵の中で段ボールに向き合う。指先が疼く。
目の奥に小さな熱。脈打つような圧迫感。
気のせいだ。蔵の埃が、目に入っただけ。自分にそう言い聞かせて、瞬きを二度した。
作業を続ける。指先が、一枚の紙に触れた。
美咲の字だった。几帳面な筆致。ところどころ、焦りで震えている。
紙は破れていて、半分もない。読める部分だけを、目で追う。
(――逸脱、確認。対象は二名。うち一名は――)
その先が、破れて消えている。
(もう一名は、たぶん――)
そこも、破れている。
意味が分からない。分からないのに、指先が震える。
これは何だ。業務日誌か。彼女は颯太の知らない仕事をしていたのか。それとも――
「颯太くん、もう暗いから、続きは明日にしましょ」
美咲の伯母の声。我に返り、メモを上着の内ポケットに隠した。
なぜか誰にも見せる気にはなれなかった。
その夜、自分の部屋で天井を見ていた。
窓の外に、満月。
満月の夜だけ、夢を見る。三年間、一度も欠かしたことがない。
目を閉じる。
不自然なほどに重たい瞼を開けたとき、そこはもう颯太の部屋ではなかった。
夏の匂い。
河川敷。夕方。遠くで花火大会の音がする。隣に美咲がいる。生きている美咲。笑っている美咲。
「ねえ、今年こそ一緒に見ようね」
頷く。何度目かも分からない、夢の中だけの約束。分かっている。これは夢だ。彼女はもういない。それでも今だけは、この夢の中に居続けたいといつも願う。
「颯太」
名前を呼ばれて、隣を見る。
美咲の表情が変わっていた。
笑顔が消えて、何かに気づいたような、怯えたような顔だ。
目の奥がまた熱くなる。蔵で感じたのと同じ圧迫感。今度はさっきよりずっと強い。
美咲の口が大きく動く。目を見開いて、颯太の腕を掴んで、渾身の力で何かを伝えようとしている。
聞こえない。
その言葉だけが、世界から削り取られているみたいに、音にならない。
唇の形だけが同じ動きを繰り返す。読み取れそうで、読み取れない。
「え……なに、聞こえない。美咲?」
景色が歪む。花火の音が巻き戻る。夕焼けが洗い流されて消えていく。
美咲の顔だけが視界の中心に残る。口を動かしている。伝えようとしている。
彼女の唇の動きだけを追おうとする。
届かない。
視界が、真っ黒に潰れる。
遠くで、太鼓の音がした。
低く、規則正しく、地面を伝って響いてくる。誰が、何のために打っているのか分からない。
布団の柔らかさがない。硬い。冷たい。頬に当たる感触は、土だ。
体を起こす。
見上げた空に、月はない。
代わりに、見たこともない色の光が、空の低いところでゆっくりと明滅していた。
太鼓の音は、まだ続いている。
立ち上がって、ようやく気づく。
ここは、駅前だ。見覚えがある。見覚えがありすぎる。
新宿。
巨大な広告ビジョンは今も律儀に見知らぬ新作コスメのCMを繰り返し流している。信号は青から赤へ、また青へと機械的に切り替わり続ける。誰もいないコンビニの自動ドアが、ふいに大きく開いた。そして、閉じた。
誰もいない。
いつもなら人波で埋め尽くされている交差点に、颯太一人。信号が青に変わっても、渡る人間はいない。
スマートフォンを取り出す。電波は入っている。時刻も表示される。ただし日付が、颯太の知る今日から随分先になっている。地図アプリを開く。現在地は、確かに新宿。けれど路線図の一部が違う。ある駅の名前が、そこにない。
誰かに聞こうにも、聞く相手がいない。仕方なくあてもなく歩き出した。
歩くほど、違和感が増していく。看板の店名は、知っているものもあれば、知らないものもある。空気は、生きている街のそれだ。ただ住人だけがいない。街全体が息を潜めて、颯太一人をやり過ごそうとしている。
どれくらい歩いただろう。
路地の奥、ビルの隙間に、それはあった。
鳥居。
圧倒的な違和感に足を止める。
美咲の神社に何年も通った颯太には分かる。あれは朱色じゃない。もっと濃い、血のような赤。何か別のものに塗り替えられたような、鮮烈な赤だ。
誰が、こんな場所に。
なぜ、ビルの隙間に、こんなものが。
吸い寄せられるように近づいていく。目の奥の熱が今までで一番強い。
頭の芯まで脈打つ。引き返せ、と体のどこかが叫んでいる。
それでも、赤い鳥居の前に立った。
先には何もない。ただのビルの壁。行き止まりだ。
なのに、足が止まらない。迷いなく、鳥居の下へ進んでいく。
くぐった瞬間。
視界がまるでフィラメントが弾けるように白く弾けた。
次に焦点が合ったとき、まだ同じ場所に立っていた。
同じに見えるだけかもしれない。空気の匂いがさっきまでと微妙に違う。
その違和感の答えに気が付いた。
誰もいなかったはずのその場所に、人影があった。
逆光で顔が見えない。最初から、そこにいたことが当たり前であるかのように、人影はただ、そこに佇んでいた。
颯太の心臓が跳ねる。目の奥の熱が痛みに近いところまで来ている。
恐る恐る警戒しながら距離をつめる。
颯太が口を開くより先に、人影が言った。
「やっと、会えた」
知らない声。なのに、どこかで聞いたことがあるような、奇妙な懐かしさがある。
「あなたは、誰――」
言い終わる前に、人影が続けた。
「凪」
颯太の、知らない名前だった。
「え……?」
問い返そうとした瞬間、視界がまた白く歪む。人影の輪郭が滲み、遠のいていく。
「待って」
伸ばした手は、何にも届かない。
世界が、暗転した。




