第10話 「境界線上」
スマートフォンが鳴った。知らない番号。
出るなり、声だけで分かった。
「新宿に、行ったな」
梓澪だった。抑揚のない声の奥に、明確な苛立ちがあった。
「……なんで、分かるんですか」
「お前が思ってるより、俺の情報網は広い」
言葉に詰まる。言い訳を探したが、何も出てこなかった。
「三十分後、この前の喫茶店に来い」
一方的に、通話が切れた。
喫茶店の奥の席で、梓澪は既に待っていた。テーブルの上に、腕を組んで。
颯太が席に着くなり、梓澪は口を開いた。
「何を見た」
誤魔化しは、許されない空気だった。搬入口の暗がりで出会った、あの男のことを話した。目に光がなかったこと。掠れた声で何かを訴えていたこと。お守りが震えた瞬間、消えたこと。
話し終えると、梓澪は長く息を吐いた。
「馬鹿か、お前は」
「……すみません」
「謝って済む話じゃない。お前が消えかけていたのは、その男じゃない。お前だった可能性すらある」
颯太の背筋が冷たくなった。
「どういう、意味ですか」
梓澪はしばらく黙った後、諦めたように、もう一度長い息を吐いた。
「――教える。ちゃんと、順を追って」
「……いいんですか」
「良くない。だが、お前を放っておく方が、もっと悪い」
梓澪はテーブルに人差し指で、簡単な図を描いた。円が二つ。
「この世界には、"バグ"がある。時間の秩序が乱れてできた、ただのエラーだ」
「バグ」
「原因は、色々言われてる。一番有力なのは、人の情念だ」
「情念?」
「恨み、絶望、後悔。マイナスの感情ってのは、目に見えないだけで、確かに"溜まる"。それが、ある程度を超えると、時間や場所の秩序そのものを、歪ませ始める。バグは、その歪みが、目に見える形を取ったものだ」
「お前が土手で見たようなやつだ。何の意志もない。ただ、そこにいるだけで害になる。俺たちは、これを第一種と呼んでる」
梓澪はもう一つの円を指す。
「もう一つは、そのバグが特定の人間に取り憑いて、その人間自身が、恐怖や絶望に飲まれて堕ちた成れの果てだ。中身は、別の何かじゃない。元々のその人間が、変わり果てた姿だ。これが第二種だ。お前が見た男は、多分こっちだ」
「多分、っていうのは」
「見た目じゃ、完全に人間との判別はつかない。だから危険なんだ」
喉が渇くのを感じた。
「例を挙げる方が早いか」
梓澪は指先でテーブルを軽く叩きながら、続けた。
「八岐大蛇。牛鬼。あれは第一種だ。人間由来じゃない、ただのバグが、大昔の人間の目にはああ映った」
「じゃあ、第二種は」
「平将門」
目を見開いた。
「知ってるだろ、大手町の首塚。あれは、ただの言い伝えじゃない。今も、現役だ」
「本物、ってことですか」
「将門も、大蛇も、牛鬼も――結局は同じ現象だ。このシステムが吐き出した、同じ種類のエラーが、時代と場所によって、違う姿を取っただけ。祟りとか、神話とか、そういう言葉で語ると本質を見誤る」
梓澪の口調は終始、平坦だった。感情の起伏がない。まるで、機械の仕様を説明しているような。
「新宿で颯太が見たのは、恐らく、堕ちかけの第二種だ。完全に堕ちる前の、境界線上にいる状態」
「助けられるんですか、あれって」
梓澪の目が初めて僅かに揺れた。
「――場合による」
それ以上、彼女は語らなかった。
「お前が知りたいのは、そこだろ」
答えられなかった。図星だった。
「言っておく。境界線上にいる者を、無理に引き戻そうとして、逆に引きずり込まれた例がある」
梓澪の声が僅かに低くなる。
「軽々しく首を突っ込むな。今日みたいに」
頷くしかなかった。
梓澪はテーブルの図を、指で乱暴に消した。
「次は、実践だ。座学だけじゃ、お前は死ぬ」
思わず梓澪の顔を見た。
「本気ですか」
「本気じゃなきゃ、こんな面倒なことしない」
素っ気ない声。だが、颯太には、それが彼女なりの譲歩だと分かった。
連れて行かれたのは、昭和記念公園だった。閉園後の時間、当然、人影はない。梓澪はフェンスの外れた場所を迷いなく通り抜けていく。慣れている足取りだった。
広大な芝生の中央で、梓澪は足を止めた。
「まず、お前の"漏れ"を止める」
「漏れ」
「お前の目の力は、四六時中、垂れ流しになってる。だから妖怪を引き寄せる。蛇口が壊れた水道と同じだ。閉め方を覚えろ」
梓澪は颯太の正面に立ち、印を組む。
「息を吸って、止めろ。目の奥の熱を、内側に押し込むイメージだ」
言われた通りにする。息を止め、意識を右目に集中させる。
何も、起きなかった。
「――もう一回だ。今のは、力んでるだけで閉じてない」
何度も繰り返した。五回目か、六回目か。数えるのをやめた頃、微かに、右目の奥の圧が、僅かに和らいだ気がした。
「――今の」
「気づいたか。悪くない」
梓澪の声に初めて、僅かな肯定の響きがあった。
「もう一段階、進める。動くものに対して、閉じたまま反応できるか試す」
梓澪は懐から一枚の符を取り出した。指先に、自分の血を一滴、垂らす。
「――影行」
低い声で、名を呼んだ。
符が、宙で燃えるように歪み、輪郭を持ち始める。黒い獣の形。犬でも狼でもない、輪郭の曖昧な四足の獣が、地面に降り立った。
思わず後ずさる。
「大丈夫だ。俺の式だ」
獣——影行は、梓澪の傍らに座り、颯太をじっと見ている。かつて何だったのか、颯太には想像もつかなかった。ただ、その目には、獣とは思えない、深い理性の色があった。
「こいつが、軽くお前を試す。閉じたまま、避けろ」
「待って、そんな急に」
颯太が言い終わる前に、影行が地を蹴った。
黒い影が、瞬時に距離を詰めてくる。反射的に体を捻った。爪先が、腕を掠める。熱くはない。ただ、鋭い緊張だけが、皮膚を伝った。
「止まるな。目は閉じたままでいい、体で反応しろ」
梓澪の声が飛ぶ。転がるようにして次の一撃をかわす。目の奥は、意識して閉じたまま。それでも、体は、影行の動きの気配を捉えていた。
何度目かの攻防の後、梓澪が短く手を上げる。
「――そこまで」
影行が、動きを止め、静かに梓澪の傍らへ戻っていく。まるで、最初から荒事などしていなかったかのような、穏やかな佇まいだった。
膝に手をついて、荒い息を整える。全身が、汗で濡れていた。
「悪くない」
梓澪がもう一度言った。今度は、はっきりと。
「目を閉じたままでも、体は"見えて"る。それがお前の本質だ。目に頼りすぎるな」
顔を上げる。
「もっと、練習すれば」
「する。ただし、俺の都合のいい時にだけだ」
突き放すような言葉。だが、颯太の目には、彼女がほんの少しだけ、口の端を緩めたように見えた。
梓澪が指を軽く鳴らす。影行の輪郭が、みるみる縮んでいく。精悍だった獣の姿は、小型犬ほどの、小さな影の塊に変わった。丸い目だけが、やけにくりっとしている。ふわふわとした輪郭が、夜風に僅かに揺れていた。
小さくなった影行は、迷いなく梓澪のフードの中に潜り込み、顔だけをちょこんと覗かせる。
颯太は思わず声を漏らした。
「……さっきと、全然違う」
「戦う時と、それ以外は別だ。当たり前だろ」
梓澪の口調は変わらない。だが、フードの中の影行の頭を、指先で軽く撫でる仕草だけは、どこか優しかった。
影行は、颯太の視線に気づくと、丸い目でじっと見つめ返してきた。その視線に、敵意はない。ただ、値踏みするような、静かな観察だけがあった。




