第11話 「焦燥の対価」
訓練を重ねるたび、目の奥の"漏れ"は少しずつ制御できるようになっていた。
梓澪には、まだ話していないことがある。
颯太は自室の机に向かい、お守りを手のひらに乗せていた。
この数日、梓澪から教わった呼吸法を、独学で繰り返してきた。息を細く長く吐きながら、目の奥の熱を、意識的に鎮める。最初は、うまくいかなかった。だが、繰り返すうちに、少しずつ、熱の輪郭を自分の意志で捉えられるようになってきた気がした。
大学の講義中も、電車の中でも、気づけばその呼吸を繰り返している自分がいた。日常の隙間に、少しずつ、"あちら側"の感覚が染み込んでいくようだった。友人と話していても、頭の片隅は、常に別のことを考えている。この生活が、いつまで続けられるのか、颯太自身、分からなくなっていた。日常と非日常、その境界線が、少しずつ曖昧になっていく感覚があった。
あの夜、河川敷で会った時の美咲。あの記憶には、もう何度も戻った。何が起きるか分かっている。分かっているからこそ、少しずつ、深く潜れるようになっている気がした。
もっと先に、行けるかもしれない。
梓澪には「まだ早い」と言われるに決まっている。だから、聞かなかった。
目を閉じる。
お守りが、いつもより強く熱を持った。
夕焼けは、いつもと同じだった。河川敷、美咲の声、頷く自分。
だが今夜は、そこに留まらなかった。
意識を、もっと先へ。もっと後の時間へ。
景色が、早送りの映像のように流れていく。季節が変わり、また戻り、幾つもの颯太と美咲がすれ違っていく。楽しそうな二人。喧嘩する二人。何も知らずに笑う二人。
その一つ一つが、確かに颯太自身の記憶のはずなのに、まるで他人の人生を覗き見ているような、奇妙な距離感があった。制服姿の二人。私服で出かけた、どこかの遊園地。雨の日、傘を分け合って歩いた帰り道。全てが、断片的に、颯太の意識の中を通り過ぎていく。
止まるな。もっと先だ。
意識だけで、時間の奔流を押し進む。目の奥が悲鳴を上げるように熱くなる。今までのどの痛みより、強く、鋭い。
景色が赤く滲み始めた。
夕焼けの色ではない。もっと深い、粘つくような赤。
それでも、止まらなかった。
もう少しだ。もう少しで、あの夜に――
突然、視界の中心に、何かが現れた。
輪郭のない、ただ"気配"だけの何か。それは、颯太の存在そのものに、体当たりするような圧をかけてきた。
言葉にならない、何かの声。
男とも女ともつかない、大勢の声が重なったような。歓迎するような、拒絶するような、同時に両方であるような。それは、まるで一つの意志ではなく、無数の意志が寄り集まって一つの声を作り出しているようだった。
颯太の全身が粟立つ。
――まだ、来るな。
あるいは、
――早く、来い。
どちらの声だったのか、判別がつかなかった。両方が、同時に聞こえた気がした。
視界いっぱいに、赤い光が満ちる。その奥で、何か途方もなく巨大なものが、ゆっくりとうねるように蠢いていた。輪郭は、最後まで結ばれなかった。まるで、颯太の目そのものが、それを"見る"ことを拒んでいるかのようだった。
悲鳴を上げた。声にならない悲鳴だった。
その瞬間、懐のお守りが痛いほどの熱を放った。まるで、颯太の手を強く引くように。
次の瞬間、体が乱暴に引き戻される感覚があった。
目を開けると、自室の床に倒れていた。
全身が、氷水に浸かったように冷たい。呼吸が、うまくできない。手足の感覚が、じわじわと戻ってくるまで、しばらく時間がかかった。
お守りを見る。いつもの温もりが、ない。冷たい、ただの布と石の塊になっていた。
震える手で、右目に触れる。
視界の右端、以前よりも広い範囲が、白く滲んでいた。戻らない。瞬きを繰り返しても、その白さは消えなかった。
代償が、また一段進んでいた。
いつか、この目は、完全に光を失うのかもしれない。その予感が、頭の片隅を、冷たく撫でていく。それでも、颯太の心は、不思議と揺るがなかった。むしろ、その予感すら、確信を強める材料にしかならなかった。
床に座り込んだまま、動けなかった。
さっき見たものが、何だったのか。
考えるだけで、体の芯が凍りつくようだった。
あれに、近づいてはいけない。
理屈ではなく、本能が、そう告げていた。
それでも、頭の片隅で別の考えが、じわりと湧き上がってくる。あの声は、確かに颯太に向けられていた。歓迎とも拒絶ともつかない、あの矛盾した響き。まるで、あの向こう側に、颯太を待つ何かがいるようだった。
もしかしたら、あの声こそが、答えに一番近い場所からのものだったのかもしれない。恐ろしいと同時に、そう考えずにはいられなかった。あの声の主が、敵なのか、それとも何か別の存在なのか、今の颯太には判断のしようがなかった。
それでも――
震える指で、もう一度お守りに触れる。
温もりは、まだ戻らない。
深く息を吐いた。今夜は、もう限界だった。
だが、諦めたわけではなかった。
あそこに、何かがある。あの赤い光の向こうに、美咲の死の真実がある。
そう、確信していた。何の根拠もないはずなのに、その確信だけは、揺るぎなかった。
視界の白い滲みは、まだ消えない。鏡を見るのが、少し怖かった。それでも、その恐怖よりも、確信の方を選んでいた。
次はもっと、深く潜れるはずだ。代償が増えても、構わない。
その考えが、どれほど危ういものか、颯太自身、まだ気づいていなかった。目の前の可能性に、視野そのものが、既に狭まり始めていることにも。
窓の外、いつの間にか、空が白み始めていた。一晩中、床に座り込んでいたことに、颯太はようやく気づいた。体の節々が、鈍く痛む。それでも、頭の中は、奇妙なほど冷静だった。まるで、痛みすら、この確信の正しさを裏付ける証拠であるかのように。
次に梓澪と会う時、今夜のことを、話すべきかどうか。迷いながらも、その答えを先延ばしにした。今はまだ、この確信を、誰にも邪魔されたくなかった。たとえそれが、梓澪であっても。




