第12話 「縁の起源」
待ち合わせ場所に着くなり、梓澪の足が止まった。
夜の湿った空気が、肌にまとわりつく。遠くで、電車の走行音が低く響いていた。
いつもと、何かが違う。連絡を受けた時から、その予感はあった。梓澪の声の抑揚が、いつもより硬かった。
颯太の顔を、正面から見据える。値踏みするような目ではない。もっと鋭い、確信に近い目だった。
「――目、見せろ」
「え」
「いいから」
逆らえなかった。梓澪の指が、顎に触れ、顔を街灯の方へ向けさせる。指先は、思いのほか冷たかった。
しばらくの沈黙があった。
「……広がってる。前より、明らかに」
誤魔化しようがなかった。目を伏せる。
「何をした」
「……お守りを、使いました。一人で」
「どこまで戻った」
答えに詰まる。梓澪の目が細まった。
「あの夜まで、行こうとしたな」
図星だった。頷くしかなかった。
梓澪はしばらく無言だった。夜風が、二人の間を通り抜けていく。その沈黙が、いつもの素っ気なさとは違う、何か重い決断を伴うもののように感じられた。
「――もう、隠しておく意味もないか」
独り言のような呟き。梓澪は颯太の目をまっすぐ見た。
「聞け。一度しか言わない」
息を呑む。
「お前の名字、常盤だったな」
「……はい」
「その名字、俺の家系と同じだ」
颯太は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
「――どういう、意味ですか」
声が微かに震えていた。
「お前は、常盤の本家の生き残りだ。俺は、分家の人間に過ぎない」
颯太の頭の中が真っ白になった。
「常盤家は、太古から、妖怪を使役する技術を継承してきた一族だ。俺が今使ってる術も、お前が目に宿してる力も、根っこは同じ血から出てる」
「そんな、聞いたことも――」
「聞いたことがなくて当然だ。お前の家系だけ、記憶を失ってる。理由は、俺も詳しくは知らない。だが、それが偶然だとは思えない」
めまいを覚えた。三年前どころではない。もっと根源的な部分で、自分自身を知らなかったということになる。
これまで、自分の家族について、疑いを持ったことなど一度もなかった。ごく普通の家庭で育ち、ごく普通の人生を歩んできたはずだった。その足元が、今、静かに崩れ落ちていく感覚があった。
「じゃあ、美咲は」
その名前を出した瞬間、梓澪の表情が僅かに変わった。夜風が、少し強くなる。街路樹の葉が、乾いた音を立てて揺れた。
「――彼女の家系のことも、知ってるんですか」
「椎葉家。陰陽道の技術を継承する一族だ。常盤が"使役する"側なら、椎葉は"祓い清める"側。本来は、対極にある家系だ」
「対極、って」
「昔、敵対していたかもしれない、ってことだ。詳しくは、俺も又聞きでしか知らない」
言葉を失った。自分と美咲。使役する者の血と、祓う者の血。もし梓澪の言う通りなら、二人の関係そのものに、知らなかった意味が隠れていたことになる。
幼い頃から、当たり前のように隣にいた美咲。その関係の裏に、こんな因縁が眠っていたなんて、想像したこともなかった。
二人で過ごした時間の、一つ一つが、今、違う意味を帯びて見えてくる。偶然の出会いだと思っていたものが、もしかしたら、もっと大きな何かに導かれた結果だったのかもしれない。そう考えると、これまで信じていた自分たちの関係そのものが、根底から揺らぐような気がした。
「なんで、今まで黙って」
「確信が持てなかった。それに——」
梓澪は一度言葉を切った。
「知ったところで、お前に何ができる、とも思ってた」
冷たい言い方だった。だが、颯太には、その奥に別の感情があるのが分かった。心配、あるいは、もっと複雑な何か。
「これ以上は、俺の口からは話せない。お前の家系のことも、椎葉のことも、俺が知ってるのは表面だけだ」
「じゃあ、誰に聞けば」
梓澪は答えなかった。ただ、颯太の目をもう一度見て、静かに言った。
「これで分かったろ。お前は、思ってるより、深いところまで足を突っ込んでる。もう、後戻りできる段階じゃない」
震える手を握りしめた。指先が冷たくなっているのが分かった。
知らなければならないことが、また一つ増えた。だが今度は、その重さが、これまでとは比べ物にならなかった。
自分が何者なのか。
初めて、その問いの本当の深さに気づいていた。
これまで積み重ねてきた、自分という人間の輪郭が、音を立てて崩れていくようだった。颯太、という名前。常盤、という姓。当たり前だと思っていた全てが、今は、見知らぬ他人のもののように、よそよそしく感じられた。
自分の中に流れる血が、遥か昔から続く、何か大きなものの一部だったなんて。そう考えると、これまで生きてきた二十年間が、急に薄っぺらいものに思えてくる。それでいて、同時に、右目に宿るこの熱の正体が、少しだけ、輪郭を持ち始めた気もした。
梓澪はそれ以上何も言わず、夜道を歩き出した。颯太も、黙ってその後を追った。
二人の足音だけが、静かな住宅街に響いていた。答えの出ない問いを抱えたまま、その夜は、ただ長く感じられた。
角を曲がる直前、梓澪がふと足を止めた。振り返らないまま、低く呟く。
「――一つだけ、覚えておけ」
「なんですか」
「知ることと、変えられることは、別だ。それを、履き違えるな」
その言葉の意味を、颯太はすぐには理解できなかった。だが、なぜか、胸の奥に、鋭く突き刺さった。まるで、これから先、颯太が向かおうとしている道の全てを、見透かされているような一言だった。
梓澪はそれ以上何も言わず、夜の中へ歩き去っていった。
一人残された颯太は、しばらくその場から動けなかった。頭の中では、常盤、椎葉、という二つの名前が、繰り返し反響していた。
自宅に着いても、玄関の鍵を開ける手が、しばらく止まったままだった。家の明かりが、いつもと同じように、窓越しに漏れている。その当たり前の光景が、今夜は、やけに遠く感じられた。まるで、もう自分は、以前の自分とは違う何かになってしまったかのように。




