第70話 「激昂」
「――颯太」
その声に、颯太の思考が一瞬で真っ白になった。
聞き間違えるはずがない。三年間、何度も記憶の中で繰り返してきた声だった。
「久しぶりだね」
背後の気配が優しく揺れる。懐かしい、あの話し方のまま。
「振り返って、顔、見せてよ」
足が勝手に動きかけた。振り返るな、という自分への警告が、頭の奥で霞んでいく。
「颯太」
澪の声が鋭く飛んだ。
「聞くな。惑わされるな」
「でも……」
「でもじゃない。それは、美咲じゃない」
分かっている。頭では分かっているのに、体が言うことを聞かない。
「一緒に、帰ろう?」
その一言に、颯太の目の奥が熱くなった。涙がこみ上げてくる。会いたかった。ずっと、ずっと、会いたかった。
影の中から、小さな唸り声がした。眠っていた男の子を抱えた影行が、震えながらも颯太の足元に、体をこすりつけてきたのだ。小さな温もりが靴の上に伝わる。
その瞬間、颯太の頭に一瞬だけ、冷静さが戻った。
――待て。試してみればいい。
「……いつもスタバで頼んでたメニュー言えるか?」
声にならないほど、小さな問いだった。それでも、背後の気配は答えようとして一瞬、詰まった。
「え、えっと……」
その、ほんの僅かな間が、全てを語っていた。
「――言えないよな。お前は、美咲のこと、何も知らないんだろ」
声に、確かな力がこもっていた。張り詰めていた体から、少しずつ冷静さが戻ってくる。
沈黙が落ちた。
背後の気配が、すっと冷たくなった。これまでの甘い響きが、音もなく消えていく。
「――つまんないな。簡単に振り向くと思ったのに」
声の調子が変わった。だが、まだ、美咲の声のままだった。
「ほんとのこと、教えてあげようか?」
颯太は眉を寄せた。嫌な予感が、背筋を這い上がる。
「お前のせいで、死んだんだよ」
颯太は息を止めた。
「ずっと、言えなかったけどね。本当は、颯太のこと、そんなに好きじゃなかったんだ」
その声は、間違いなく、美咲のものだった。優しい響きのまま、ひどく残酷な言葉を、紡いでいる。
「お前なんかと一緒にいて、楽しいふりするの、疲れてた」
颯太の中で、何かが、ぶつりと音を立てて切れた。涙は、もう出なかった。代わりに、腹の底から、これまで感じたことのない、冷たい怒りが込み上げてくる。
「――黙れ」
声が震えた。悲しみでは、なかった。
「その声で、その顔で、もう喋るな」
「あれ、怒っちゃった? でも、本当のことだよ」
「黙れって言ってるんだ!」
颯太は振り返った。
そこにいたのは、もう、美咲の姿ではなかった。輪郭の定まらない、黒い靄のような何か。目鼻だけが、ぼんやりと人の形を保っている。
「お前は、美咲じゃない。美咲を侮辱するな!」
「分かるの? たった三年、一緒にいただけで」
「分かるんだよ」
颯太は、水鏡を抜き放った。刃が、月明かりを受けて青白く光る。
「お前、今まで、何人の子供に、同じことをしてきた」
「数えてないなぁ。大体、みんな、簡単に泣いてくれるから、楽しくて」
妖は、悪びれる様子もなく、くすくすと笑っている。その無邪気さが、何よりも颯太の神経を逆撫でした。
「お前は、人の、一番大切な想いを利用して、傷つけて、それを、ただの遊びだと思ってる」
「だって、遊びだもの」
その一言で、颯太の中の、最後の何かが外れた。
「神鳴」
「分かってる」
神鳴の声が静かに返る。颯太の全身から、これまでにない熱が噴き出すように広がっていった。右目の奥、焼けるような痛みと共に、凪の力が、堰を切ったように溢れ出してくる。
「颯太、落ち着け! 力が――」
澪の声が聞こえた。だが、もう、止まれなかった。
「水月!」
放たれた水の刃は、これまでのどの一撃とも、比べ物にならなかった。三日月の形を大きく超え、夜空そのものを切り裂くような、巨大な奔流となって、黒い靄へと襲いかかる。
妖の悲鳴は、一瞬だった。断末魔すら許されないまま、その輪郭は闇の中へ、跡形もなく消え去った。
同時に、水の奔流が、勢いを失わないまま、周囲の木々や遊具に向かって広がっていく。
「くっ――結界!」
澪が叫び、素早く印を組んだ。一重、二重、三重。立て続けに張られた結界が、辛うじて、水の奔流を押し留める。公園の外まで届く寸前、その勢いは、ようやく収まった。
静寂が戻った。
颯太は、荒い息のまま、その場に立ち尽くしていた。右目の奥が、まだ、鈍く痛んでいる。
「――はぁ、はぁ……」
膝が、かくりと折れた。地面に、両手をついて、ようやく体を支える。
澪が、駆け寄ってきた。その顔には、安堵より先に、明確な怒りが浮かんでいた。
「馬鹿野郎!」
叫び声が、夜の公園に響いた。
「周りに、どれだけの被害が出るところだったと思ってる! 結界が間に合わなかったら、民家まで巻き込んでたんだぞ!」
「……すみません」
「謝って済む問題じゃない。お前、今、完全に我を忘れてただろ」
颯太は、何も言い返せなかった。その通りだった。あの瞬間、自分が何をしているのか、半分も分かっていなかった。
「凪の力は、お前の感情に、直接反応する。怒りに任せて振るえば、際限なく膨れ上がる。今日は、結界を張れたから良かったものの」
澪の声には、怒りと同時に、隠しきれない恐れも滲んでいた。
「次、こうなったら、彼岸の討伐対象になるのは、本当に、お前自身だぞ」
その一言が、颯太の胸に、重く突き刺さった。
「――分かってます」
「分かってるなら、二度とやるな」
澪は、そう言うと、大きく息を吐いた。それから、少しだけ、声を和らげる。
「……お前が、無事で良かった」
颯太は、静かに頷いた。安堵と、自己嫌悪が、同時に胸の中で渦巻いていた。力を、制御できなかった。その事実だけが、重く、残り続けていた。




