第69話「卑劣極」
振り返るな。
その一言だけが、颯太の頭の中で繰り返し鳴っていた。
背後で歌声が続いている。かーごめ、かごめ。笑い混じりの幼い声だった。首筋に絡みついた冷気は、離れる気配がない。呼吸をするたび、肺の奥まで冷たいものが入り込んでくるようだった。
足元の神鳴が、砂場の方を向いたまま、低く喉を鳴らしている。牙を剥いてはいるが、飛びかかれずにいるのが分かった。狙うべき相手が、どこにいるのか。それすら、掴めていないのだ。
腕の中で、男の子が小さく身じろぎした。歌に反応しているのが、その体の熱から伝わってくる。この子はまだ、後ろにいる誰かを探している。
「――澪さん」
返事がない。横目で窺うと、澪は前を向いたまま微動だにしていなかった。握りしめた拳が、細かく震えている。
その時、歌が途切れた。
「ねえ、姉ちゃん」
声が変わった。子供の声ではない。少年の、少し掠れた声だった。
澪の肩が、びくりと跳ねた。
「久しぶり。ずっと、会いたかったんだ」
「――やめろ」
絞り出すような声だった。首元の紋様が、服の下で微かに赤く光っている。どこか遠くで、鎖の鳴る音がした気がした。梵天丸が目を覚ましかけているのだ。
「姉ちゃん、こっち向いてよ。顔、見せて」
「やめろって」
澪の声が掠れて震えた。いつも揺るがない背中が、今はひどく小さく見えた。
颯太は奥歯を噛みしめた。あの夜、澪が語ってくれた弟のことを思い出す。自分の手で止めるしかなかった、あの過去を。その傷口に、この妖は、平然と塩を入れてくる。
今度は、俺が支える番だ。
「澪さん」
できるだけ静かな声で呼んだ。
「振り返らないでください。それは、澪さんの弟さんじゃない」
「分かってる」
「分かってても、辛いですよね。だから、俺の声だけ聞いててください」
澪が短く息を吐いた。
「――お前に言われるとはな」
その声に、僅かないつもの棘が戻っていた。
腕の中の男の子が、また、もぞりと動いた。今度ははっきりと、首を回そうとしている。
「お母さん……」
「駄目だ」
颯太は男の子の頭を、掌でそっと押さえた。細い首が抗うようにぐいと動く。子供の力とは思えないほど強かった。まるで、何かが後ろから引いているようだった。
「澪さん、この子を眠らせられますか」
「符がある。受け取れ」
澪は前を向いたまま、震える指先で、一枚の符を横に差し出した。颯太は空いた手でそれを掴み、男の子の額に貼りつける。
「眠れ」
小さな体から、ゆっくりと力が抜けていく。荒かった呼吸が、静かな寝息に変わった。
「――よし」
だが、これで終わりではなかった。眠った子供は、腕の中でずしりと重くなる。両手が塞がったまま背後の何かと向き合うのは、あまりにも不利だった。
「影行」
澪が掠れた声で呼んだ。
フードの中から、影行が地面へ降りた。足元の影が生き物のように広がっていく。その中へ、男の子の体がそっと沈み込んだ。
腕から重みが消え、颯太は思わず息をついた。
小さな式神は、地面に伏せたまま動かなかった。影の中で子供を隠し続けるために、その場を離れられないのだ。小さな体が、小刻みに震えている。
「ありがとう、影行」
颯太が小さく告げると、影行は震えながらも、尻尾の先だけを、そっと揺らした。
「頼むぞ」
澪の声に、影行が、ぴくりと耳を動かした。
これで二人とも両手が空いた。だが、背後の存在は、まだそこにいる。
「神鳴!」
颯太の呼びかけに、足元の狼が地を蹴った。青白い雷光が、颯太の背後めがけて奔る。
手応えは、なかった。
雷は空を裂き、夜の闇に溶けていった。背後から、くすくすと、笑い声が漏れる。動けない二人が足掻く様子を、楽しんでいるようだった。
「当たらないよ。だって、ここにはいないもの」
神鳴が、颯太の前に戻ってきた。低く唸る声が、頭の中に、直接響く。
「――颯太」
「神鳴、お前は、見えてるのか」
「見ている。だが、形が定まらない」
その声は、いつになく、緊張していた。
「子供になり、女になり、男になる。溶けるように、次々と姿を変えている」
颯太は息を呑んだ。
「目を合わせるな。お前たちは、見てはならん」
やはり、そういう相手なのか。颯太は前を向いたまま、拳を握った。振り返らないまま、この相手と戦わなければならない。背後を取られた状態で、攻撃も当たらない。それでも、諦めるわけにはいかなかった。
「颯太」
澪が前を向いたまま、低く呼んだ。さっきまで震えていた声が、いつもの硬さを取り戻している。
「こいつは、順番に狙ってくる。次は、お前だ。何を聞かされても、振り返るな」
「はい」
「絶対にだ。お前の後ろは、俺が守る」
その言葉に、颯太は胸の奥が熱くなるのを感じた。つい今しがたまで、支えていたのは自分の方だった。それなのにこの人は、もう立ち上がっている。
「頼りにしてます」
「当たり前だ」
短いやり取りだったが、それだけで、背中の冷たさが少しだけ和らいだ気がした。
ふ、と、背後の気配が揺れた。
「――つまんないな」
声が、拗ねたように呟いた。
「姉ちゃんは、強いんだね。じゃあ」
冷気が颯太の首筋から、耳の後ろへと這い上がってくる。
「今度は、お兄さんの番」
その声が、少しずつ変わっていく。
高く、柔らかく。そして、颯太が誰よりも聞き慣れていた響きへと。
颯太の心臓が、止まりかけた。




