第71話「狐の足跡」
翌日の午後、颯太は澪と共に、財前が所属する浅草 橘一家の事務所を訪ねた。
古びた雑居ビルの一室。扉を開けると、線香の匂いが鼻をかすめた。壁には先代の額と大きな熊手が並んでいる。事務所というより、時代に取り残された応接間のような場所だった。
「いらっしゃいませ、お二方」
出迎えたのは鬼燈だった。着物の裾を揺らして静かに頭を下げる。その後ろで、坊主頭の若い衆が直立したまま深々と腰を折った。颯太も慌てて会釈を返す。
「颯太様。お加減はいかがでございますか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「それは何より。真弥様は奥におられます」
通された応接間で、財前は腕を組んでソファに座っていた。昨夜のうちに、澪から一報を受けていたらしい。二人の顔を見るなり、片眉を上げる。
「来たか。小僧、派手にやったそうだな」
その声に咎める色はなかった。颯太は背筋を伸ばして頭を下げる。
「すみませんでした。力を制御できず、澪さんに迷惑をかけました」
「叱るのは澪が済ませただろ。俺は事情が聞きたいだけだ。座れ」
颯太は昨夜の出来事を順に話した。かごめかごめの歌。背後の声。美咲の声を使われたこと。妖が言い放った言葉を口にする時だけ、喉の奥が詰まった。
「失踪してた子供たちは、全員、公園の近くで保護された」
澪が補足した。
「記憶の処理は、本部の係が済ませてる」
「そうか。子供たちが無事なら、まずは上出来だ」
財前は短く頷き、ソファの背に体を預けた。
「小僧。あの手の妖は、世の中にうんざりするほどいる。人の思考を読んで、一番心を許す相手に化けて騙す。醜悪な連中だ」
声は低く落ち着いていた。
「お前の怒りの向け先は間違ってねえ。そんな下衆は俺でも許さねえよ。問題は、加減を忘れたことだ」
「……はい」
「だがな」
財前が身を乗り出す。
「感情の波ってのは、悪いことだけじゃねえ。力に変えることもできる。要は使い方だ」
高尾山で聞いた言葉が、颯太の脳裏に蘇った。火の本質は意志だと、あの日、財前は言っていた。
「それは座学じゃ教えられねえ。現場で覚えるしかねえんだ」
「真弥様も、昔はよく、結界の外まで焼いておられました」
茶を運んできた鬼燈が、涼しい顔で言った。
「余計なことを言うな」
財前が顔をしかめる。澪が小さく息を漏らして笑った。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
その時、財前のスマートフォンが震えた。
画面を見た財前の表情が、すっと引き締まる。
「姉御か」
応答すると同時に、通話がスピーカーに切り替わった。
「真弥。今、颯太くんと澪もそこにいますか」
天海の声だった。いつもと変わらず静かで、感情の色がない。
「はい。ちょうど来てます」
「ちょうど良い。落ち着いて聞いてください」
一拍の間があった。
「新宿の路地裏で遺体が見つかりました。全身が炭化していますが、周囲には燃えた痕跡が一切ありません。燃焼促進剤も検出されていません」
颯太は息を呑んだ。遺体だけが焼け、周りの物は無傷。そんなことがありえるのか。
「現場に、妖狐と思われる妖気が残っています」
財前の目が細くなった。
「妖狐、ですか」
「断定はできません。ただ、九尾の可能性を否定もできない」
応接間の空気が凍りつく。澪が身を強張らせた。
「銀が言ってた関東の変な気配ってのは、これですか」
「可能性は高いと見ています。現場にはあなたを向かわせます。颯太くんと澪も、同行させてください」
「小僧も、ですか」
「昨夜のことは見ていました。だからこそ、あなたがいる現場で学ばせなさい」
静かな声だったが、有無を言わせない響きがあった。颯太は膝の上で拳を握りしめた。
「――行きます」
「結構です。真弥、頼みましたよ」
通話が切れた。財前は立ち上がり、上着を掴む。
「聞いたな。行くぞ」
事務所の前には黒いセダンが停まっていた。財前がハンドルを握り、澪が助手席に座る。颯太は後部座席に腰を下ろした。見送りに出た鬼燈が、窓越しに小さく頭を下げる。
「お気をつけて、颯太様」
車が走り出した。
浅草の雑踏が遠ざかり、窓の外をビルの群れが流れていく。颯太は無言のまま、膝の上で指を組んでいた。澪のフードから影行がひょこりと顔を出し、後部座席へ飛び移ってくる。小さな温もりが、強張った指先に触れた。
「緊張してるのか」
前を向いたまま、澪が言った。
「……新宿ですからね」
答えた声が、自分でも分かるほど硬かった。
「そうだな。お前が初めて、この世界に足を踏み入れた場所だ」
その一言で、記憶が一気に蘇った。無人の交差点。見知らぬ色に光る空。赤い鳥居。逆光の中に立っていた人影。あの声に「凪」と呼ばれた夜のことを、颯太は今でもはっきり覚えている。
人で溢れた夕方のホームに、一人で降り立った日のことも思い出す。あれだけの雑踏の中にいて、あの夜の静寂だけが、耳の奥に居座り続けていた。
「小僧」
財前がハンドルを握ったまま言った。
「今回は俺がいる。気負うな」
「はい」
前を向いたまま、澪が付け足した。
「……俺もいる。忘れるな」
それでも、胸の鼓動は少しも収まらなかった。
やがて前方に、高層ビルの群れが見えてきた。夕焼けを反射して、窓という窓が赤く染まっている。新宿の街が近づいてくる。
颯太は無意識のうちに、右目に手を当てた。奥が微かに疼いている。
あの街で、また何かが待っている。そんな予感が、胸の奥でゆっくりと脈打っていた。




